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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
02 / 03 Mon 13:14 ×
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07 / 14 Tue 14:00 #ドーラ ×
ネットフレが友人になるのは大きな隔たりがある。
特に日本人はそうだ。
アメリカ人は友人とネットフレの関係は似ている。どっちも距離がある。
某アメリカ人の知人と話していた時、「やっぱり」と思ったのだが、アメリカ人はあけっぴろげで礼儀正しいが、実際心の距離は日本人以上にシビヤだと聞いた。ストライクゾーン自体は限りなく針の穴のように狭く、逆にそれ以外のゾーンが凄く広い。そのためアメリカ人はネットで出来た友人といとも簡単に会おうとし、故に犯罪に巻き込まれる件数が日本と違って桁違いに多い。日本人はほとんどの人が慎重なので余程隙あらばヤリタイ気満々な人意外は早々は会わない。社交的になったといわれる今でも実際のところ本質的には変わっていない。まー民族性なので当然である。
これは人間の力学でも古くから語られていることで、信頼ゾーンが狭い人ほとそこそこのゾーンは広く、でも本音では信頼していないゾーンも広い。信頼しているゾーンが広いひとほど、信頼しない人のゾーンは狭いのだ。アメリカ人がフレンドリーなのは自分の身を守るためである。挨拶を交わすことで、何かしらトラブルがあった時にその人に助けを呼びやすくなる。安全な社会ではその必要がない。危険の意味を骨身にしみて血で理解しているので本能的防衛行動である。いい、悪い、ではなく社会性であり民族性の結果なのだろう。これはシチュエーションコメディを見てても如実に現れている。

今の日本は非常に中途半端になってきた。信頼ゾーンがフラフラ揺らいでいる。異常に根拠なく信頼ゾーンが広い危険な人と、逆で同様に信頼ゾーンが根拠なく狭い人がいる。これは精神学的には精神不安定を意味する。本来は成長の過程で確たるものが形作られるのだが、それが形成しきらずに大きくなるのだ。ネットゲームやってるとそれをよく考えさせられる。人の付き合いの距離感をもてないのだ。ドップリつかるとストーカーに近くなり、逆にドライになると超攻撃的になる。間がないのだ。まさに日本の民族性とアメリカ型社会性の間に揺れてポジションを自然にとれなくなっている。やたら積極的かと思えば、逆に閉塞的になったりとやっぱり間がない。どっちにいっていいかわからない感じだ。まさに戦後を形成してきた親たちの責任だ。民族としては日本なのだから、社会も日本をベースにすべきだったのをアメリカ型にせっせと変えてきた不具合が起きているのだ。大いに反省してもらいたい。

モンハンのネットフレにも1人いる。悪い子じゃないので基本そっとしている。「クエやろー!」言われて時間なければ「ごめー!時間ないからー」といい、時間あったり気がのったらやるって感じだ。困るのはどうしたいのかわからない会話が続く時だ。私はあえてそっとする。「遊びたい」ならそういえばいいし、「挨拶」なら挨拶で終えればいい。何が問題かというと、距離を意図的に計りすぎるのだ。それが露骨である。KYという言葉が流行ったが、あんなものはクソみたいなものだ。今の若人や大人は空気を読もうとしすぎる。私にみたいに本能で読まなくても読めてしまう人は仕方ないのだ。能力みたいなもので、読んでいるつもりはない。無意識だ。読めない人は読めないままでいい。読めない人が読もうとすると余計にややこしい自体に陥る。うちの親戚には一切読めない、一切読もうとしない人が何人かいる。それを別な親戚は非難したりするが大きな間違い。読めない人が読まなければ「ああいう人だから」でシンプルに終わるのに、読めないのに読もうと努力するとメッサワワになり余計に混乱する。今の若人は空気を読む前に自分の気持ちを読むのが先だと思う。自分の本音がどこにあるのか? 周囲はやけに盛り上がっているが、俺のどうなんだ?「さめてるなぁ」てーことはどうでもいいのか。これを素直にやると総スカンされることもあるが、通せば認められる。私はそうしてきた。社会人になってもママゴトのようなことをしている同期に嫌気がさし、私は自分がしたいようにした。上司に呼び出され「仲良くしろ!」と言われた時は、「あーこの会社クソだなー。こんな先輩が指導員なのか」と呆れたものだ。何せ自分は挨拶もするし、会話もする。仕事もスケジュール通りこなすし連絡も滞りなくやる。その上でコレなのだ。

単に連中とは気があわないだけ。性格の不一致だ。俺は俺であると同時に、彼らも彼らである。互いの自由を尊重した結果、飲み会には参加しないし、昼も勝手に行動する。ただそれだけだった。それでハブにされたこともあったが、「関係ないね」と思っていた。ママゴトはいつか終わりがくる。祭りはいずれ終わる。結局ママゴトをしていた連中はチリジリになった。そこでは初めて本音が出るのだ。やれやれなんという無駄だろうか。

師匠にもよく言われるが他人なんてどうでもいいのだ。このどうでもいいという意味をほとんどの人は誤解している。天上天下唯我独尊を誤解しているというのと同じだ。その本質にあるのは、自分の声に心から耳を澄まし、自分の人生を大切にする人は結果的に他人の心の声に耳を澄まし、他人の人生を尊重できる。空気なんて読む必要はないのだ。そんなことより前に自分はどうなのか、どうしたいのか、どうしているのか、その先にとラブルがおきたらそこからまた、どうしたいのか、どうするのか行動に移せばいい。空気ばかり読んでいると心の空っぽな人になってしまう。いつも頭の中で計算し、一人相撲の果てに、崩壊する。なに一つ幸がない。書でもそうだ。見えていることは最初であって、書けることは次である。見えていないの書けないのは当然である。下手な人ほど見えていない。技術以前の問題なのだ。

そういうこと考えても今の若人ばかりか大人も空気ばかり読もうとする。しかも性格的に性質的に無意識に把握できるような人なら仕方が無いが、意識して読もうとしている。私みたいな無意識にアンテナがある人間は一瞬で見抜いてしまうので興ざめだ。そういう人の傍にいると尻がムズムズする。「我が心ここになしか・・」
と空しくなってしまう。そんな人と会話をしても虚しくなるばかりである。

友人には心を置いているが、ネットフレには心を置いていない。置いてないというより置けないのだ。何も知らないのだから。祭りで会った人は覚えていないのが普通だ。そこで意気投合して寝たとしても忘れ去る。それが自然だ。ただ、ネットでしか会っていなくても友人と言えるほど心を置ける人もいる。しかしそれはそれなりに心の交流があったればこそであり、うわべだけの会話をいくら無限のごとく繰り返していてもそうはなからなかったと思う。あらゆるサイトでやたら意味もなくフレンド申請する人がかなりいるが私は許可も拒否もしない。その意味は無視ではない。ネットフレの段階にすすむ可能性はある。しかしそれは今ではない。だからそのままにしておく。これは心を置いているからだ。ネットフレが何万人いようと虚しさに代わりは無い。それを自覚した時の恐ろしさは想像を絶するだろう。それならフィギュアを並べて話しかけていた方が健全に思える。

友人から親友への道は更に遠い。友人の数を自慢する人もいるが、その虚しさときたらない。本当の友人ならそう多くは無いはずだ。親友なら尚更である。片手で数えられる程度が限界だろう。なぜなら人間の脳には物理的なキャパシティーがある。個性があるのでキャパシティーの広い人もいるがそれでもそう多くは無いだろう。天才を除いてこころの許容量も概ね決まっている。そこに妄想の入り込む余地はないのだ。家族を異常に大切にする人は尚更友人は少なくて当然だ。心のキャパシティーに家族が占めすぎているからだ。大量にフレといえる人が多ければ1人1人との関係性は非常に希薄だろう。逆に大して相手のことを知りもしないのに深入りするのは根拠がない。「どうして自分はあの人にこだわるのだろう」と自分を探ってみるといいかもしれない。すると単に溜まっているだけか、とか今凄く孤独を感じていてあの人なら聞いてくれそうだと思っている自分に気づくかもしれない。いずれにせよ、答えは自分の心の中にしかない。空気を読む前に自分を読めむことだ。自分を大切にする人は、他人をも大切する。それは極めて理論的であり、自然率にかなった行為なのだ。

人間というのは極めて物理的でリアリティな存在なのだ。心や精神といわれるものも大半は物理的なもので占められている。そこに妄想の挟む余地はない。フレに悩んでいる人は相手がどうのと考える前に自分に心を置くといいと思う。鬱陶しいと思うのならオンラインしないという手もある。それで済むならそれほど遊びたいわけでもないのだろう。それでも遊びたいのなら相手に素直に言ってもいい。「鬱陶しい」というのではなく、「ごめんねー、今は他のフレンド遊ぶのが楽しくて」でもいいし。自分の心を読み、自分に言うつもりで語りかければそうそうトラブルなんて起きないものだ。

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