才能というのは妄想なのではなかろうか。最近そう思い出した。才能とは実に厄介だ。才能がある人がお金持ちになると昔は思っていた。とんでもない。現実はその逆だ。過去の天才たちの多くは貧乏なままこの世を去った。人は無責任に他人の才能に羨むものだが、本人は別にのぞんだわけでも気にしているわけでもない。凡才のほうがお金もちは多い。成功=お金もちとすると、人生とはなんとしょうもないゴールなんだろうと思う。それは大衆が悪い魔法使いたちに呪にかけられている証拠だ。私は以前こんなアイデアを小説にしようとしたけど、モチベーションがまったく上がらずにやめた。題して、「1000人の魔法使いと1人の農夫」 盛り上がらなかった理由はハメルーンの笛吹き男の逆バージョンから脱せられなかったからだ。
私は常々皆は誤解をしていると思っていた。笛吹き男はキッカケにすぎないのだ。ドイツの彼もそうだ。日本のアレもそうだ。あれは偶像でありキッカケに過ぎない。実際魔法をかけ洗脳しているのは、誰かではないく、皆なのである。それを聞いてはっとしないひとは例外なく陥りやすい人だろう。よく流行流行と言われるが、あれは結果的に仕上がったものではなく、仕上げるものだ。しかも自分がである。仕掛け人がTVにでて肩で風きったような風情でのたまうが、あのような人は吐いて捨てる程度の存在でしかない。それを奉るのは大衆である。つまり大衆が奉らなければただの人だ。ココなのだ!噂に翻弄されて魔法にかかっているのは大衆であり、魔法にかけるのも大衆である。これをテーマにした小説原案だった。郊外にいた農夫は最初から最後までただ農地と向き合い、家族と向き合い幸せに暮らしている。その外側では大衆が、城の王を崇めていたかと思えば、王は悪だと大騒ぎして内紛を起こし最終的には国家崩壊にまで陥る物語だ。ラストは農夫の幸せな絵で終わる。城下町は疫病が蔓延し地獄絵図とる。
つまり大衆が何て今の日本は裕福なのだろうと、思えば裕福なのである。まー実際裕福だと思うが。それをマスコミやあ4な政府に踊らされて「貧乏だ!将来が心配だ!」とあるかどうかもわからない将来について大騒ぎしているうちに、勝手に魔法にかかり、友人知人に魔法をばらまき最後には全員で魔法をかけある。挙句に魔法にかかっていない人には、「あなたはあ4だ!現実を知らない!この非国民!」と大騒ぎする。どっちが現実を知らないのか?こっちからしたらまるであ4にしかみえない。本当に今日明日食えるものが無く餓死しそうな人は声を上げる力もないのに。彼らは飯をオオぐらいしながら大声でワメク。その矛盾に気づいてない。よく「声を上げればいい!」というが、死にそうな人は声が出ない。私は経験があるのでよくわかる。「電話してくれればよかったのに」と涙を浮かべて言ってくれる人もいたが、無理だ。死にそうな人間は電話が出来ない。声が出ないのだ。声どころか寝返りも打てない。寝返りも打てないのに電話に手が届く筈はない。あと数歩死が目前に迫って最後の力を振り絞れる段階で電話というのはかけられる。しかもそれは生きることに執着が残っている人だけだ。私なんかとくに人生遣り残した感もないので「まぁ、いいかw」と思っちゃうくちである。
うちの師匠がよくいうのは、「まっさきに何が安いかなーと誰しもが血眼になっている時代はどんなに収入が上がろうが、自分がいかに裕福であるかは一 生気づかないよ」という。なるほど、確かに!!師匠なんぞ、コーヒーのみにわざわざ帝国ホテルまでタクシーを飛ばす。金があるわけでないのだ。帰りにタクシー代がないことに気づき歩いたこともある。「あ、タクシー代ないから歩いてかえるよ」と平然としている。「その残金なら電車で帰れますよ!」と言っても、「電車は嫌いだからいいや。歩く気分になったし」 と言って1時間以上かけて歩く。結局のところ魔法にかけられているのではなく、かけているのは自分なのだ。挙句にその魔法を他人にかけているのも自分である。自分で種をまいて、自分でせっせと育てて、「なんじゃこりゃー!誰が育てたー!誰が種を巻いた!ふざけんなー!大変だー!誰か刈り取ってクレー!」と大騒ぎ。刈り取った日には、「刈り取ったものが邪魔だ!どけろー!もってけー!」と大騒ぎ。んで、もってった日には、「誰がもってったー!もうけた金はどこだ!金をよこせー!」とまたまた大騒ぎ。「頼む、誰でもいい、あいつにバズーカ打ち込んでくれ」と言いたくなるもんだ。これを国家として度ハデに建国前からやってるのが※の国だ。
才能もまさにそうだ。昨日風邪で汗だくになりながらも原稿をうっていた。かなり進んだのだが、熱で多少朦朧とするせいか時々過去の出来事が走馬灯のように頭をよぎった。私の上司だった人が私が書いた報告書をみて「お前、文章を書く才能があるな」と言ったことを思い出した。初めて書いた報告書だった。演出にも言われたことを連鎖的に思い出した。「お前は演出家に向いている。俺の跡継ぎになって台本を書け」 しかし実際どうだろうか。もしこれが才能としたら、ダラダラと永いのは書けても最後まで書く辛抱はなく、最高に面白い!というアイデアはあってもまとめる能力に欠ける。これは自他ともに認めるところだ。文章書くのは早くない。イラスト書いても、書を書いても遅い。眼力に関しても相当褒められた。前にも書いたように「エスパーか」と言われたこともある。逆にわからない人の気持ちがわからない。しかし果たしてそれがナニカの役にたっているかというと、案外そうでもない。全てを都合よくもった才能をもった人もいなくはない。しかし、実際それが何かの役にたっているかというと案外そうでもないのだ。だから天才ほどに現世での評価は必ずしも高くはない。
私の好きな四駒マンガの落ちで、「彼は神のごとき舌を持ちながら、何の役にも立たなかった」という落ちがあって大笑いしたことがある。そうだ、実際世の中そんなものである。私は昔から全ての人に才能は望むと望まざるとにおえずあると思っている。実際にある。ない人を見たことが無い。他人の才能を発掘するのは得意とするところだ。自分の望んだものではないということがポイントだ。たまさか一致する人もいるが、むしろ稀だろう。結局誰しも優れた能力はもっている、しかしそれを生かすも殺すも自分次第ということだ。よくお受験で弱点克服と言うが、私は当時から何やらしっくりこないと思っていた。しかし幼い私は気づいていながら魔法を使ってしまった。今思えば、あ4だなーwwwwww 私は当時から語学系が何故か得意でロクに勉強しなくても成績がよかったので胡坐をかいていた。だからといって語学系が好きなわけでななかった。何せ当時の夢は天文学者だ。数学の世界である。道を誤ってしまった。それを突貫できるほどの意地っ張りでもなかったw 根っからの天下泰平楽タイプなので突貫できない。もう一人俺がいたら話し合って納得しただろうに。まー人との出会いというのも運だしね。その結果がコレだw結局文化の仕事をしている。なんたる無駄なエネルギーだったのだろう。
私は身体がガチガチのうえい肉体的リズム感は皆無だ。私の身体にテンポの速い音楽は宿されていない。声楽の先生から音感は凄いと惚められていた。劇団時代、課題のダンスを覚えるため練習していた私は、いよいよ出来ない自分に半ばサジを投げかけて、思わず吐露してしまう。「○ちゃんは身体も柔らかいし、リズム感もあるから1回見ただけで踊れるのに、私なんか一体何百回やれば覚えられるのか、いやになっちゃいますよ」 と先生に愚痴をもらした。すると、ジャズダンスの先生が、「確かにそうね。彼女は軟らかいし才能もある。でも本当に出来ているかというと全然ダメね」「あれでダメなら、私なんかダメ以前か」「そうね。でも、才能がある人っていうのは絶対に胡坐をかくのよ。才能がない人が出来るようになるにはダメな点を徹底的に潰していかないといけない。そうすると基礎が身体に染み付く。ところが才能がある人は何がダメを知らずに出来るから、スランプに陥った時や調子が悪くなった時に出来ない理由がわからない。才能でできたいたから基礎を丹念にやろうともしない。困った時に基礎に戻ろうともしない。だから小手先にで誤魔化そうとする。そして小手先で誤魔化せる。気づいたら手遅れになるわけ。本当に上手な人は大概不器用な人よ。だから諦めないで。何より大事なのはダンスは楽しむことが最初だから。あなたは型以前にダンスは楽しいと思うところを目指さないと」今思えばありがたい言葉である。
結局才能はあろうがなかろうが関係ないということだ。あったらあったで苦労する。なかったらなかったで苦労する。結局才能があろうがなかろうが胡坐をかいたらその時点で終わりなのだ。やりたければ求めればいい。やりたくなければ横へ置いておけばいい、そしてまたやりたくなったらやればいい。自ら悪い魔法を自らにかける必要はないのだ。人生素直が一番なんだなー。
あーそれにしても蕁麻疹が凄い。
私は常々皆は誤解をしていると思っていた。笛吹き男はキッカケにすぎないのだ。ドイツの彼もそうだ。日本のアレもそうだ。あれは偶像でありキッカケに過ぎない。実際魔法をかけ洗脳しているのは、誰かではないく、皆なのである。それを聞いてはっとしないひとは例外なく陥りやすい人だろう。よく流行流行と言われるが、あれは結果的に仕上がったものではなく、仕上げるものだ。しかも自分がである。仕掛け人がTVにでて肩で風きったような風情でのたまうが、あのような人は吐いて捨てる程度の存在でしかない。それを奉るのは大衆である。つまり大衆が奉らなければただの人だ。ココなのだ!噂に翻弄されて魔法にかかっているのは大衆であり、魔法にかけるのも大衆である。これをテーマにした小説原案だった。郊外にいた農夫は最初から最後までただ農地と向き合い、家族と向き合い幸せに暮らしている。その外側では大衆が、城の王を崇めていたかと思えば、王は悪だと大騒ぎして内紛を起こし最終的には国家崩壊にまで陥る物語だ。ラストは農夫の幸せな絵で終わる。城下町は疫病が蔓延し地獄絵図とる。
つまり大衆が何て今の日本は裕福なのだろうと、思えば裕福なのである。まー実際裕福だと思うが。それをマスコミやあ4な政府に踊らされて「貧乏だ!将来が心配だ!」とあるかどうかもわからない将来について大騒ぎしているうちに、勝手に魔法にかかり、友人知人に魔法をばらまき最後には全員で魔法をかけある。挙句に魔法にかかっていない人には、「あなたはあ4だ!現実を知らない!この非国民!」と大騒ぎする。どっちが現実を知らないのか?こっちからしたらまるであ4にしかみえない。本当に今日明日食えるものが無く餓死しそうな人は声を上げる力もないのに。彼らは飯をオオぐらいしながら大声でワメク。その矛盾に気づいてない。よく「声を上げればいい!」というが、死にそうな人は声が出ない。私は経験があるのでよくわかる。「電話してくれればよかったのに」と涙を浮かべて言ってくれる人もいたが、無理だ。死にそうな人間は電話が出来ない。声が出ないのだ。声どころか寝返りも打てない。寝返りも打てないのに電話に手が届く筈はない。あと数歩死が目前に迫って最後の力を振り絞れる段階で電話というのはかけられる。しかもそれは生きることに執着が残っている人だけだ。私なんかとくに人生遣り残した感もないので「まぁ、いいかw」と思っちゃうくちである。
うちの師匠がよくいうのは、「まっさきに何が安いかなーと誰しもが血眼になっている時代はどんなに収入が上がろうが、自分がいかに裕福であるかは一 生気づかないよ」という。なるほど、確かに!!師匠なんぞ、コーヒーのみにわざわざ帝国ホテルまでタクシーを飛ばす。金があるわけでないのだ。帰りにタクシー代がないことに気づき歩いたこともある。「あ、タクシー代ないから歩いてかえるよ」と平然としている。「その残金なら電車で帰れますよ!」と言っても、「電車は嫌いだからいいや。歩く気分になったし」 と言って1時間以上かけて歩く。結局のところ魔法にかけられているのではなく、かけているのは自分なのだ。挙句にその魔法を他人にかけているのも自分である。自分で種をまいて、自分でせっせと育てて、「なんじゃこりゃー!誰が育てたー!誰が種を巻いた!ふざけんなー!大変だー!誰か刈り取ってクレー!」と大騒ぎ。刈り取った日には、「刈り取ったものが邪魔だ!どけろー!もってけー!」と大騒ぎ。んで、もってった日には、「誰がもってったー!もうけた金はどこだ!金をよこせー!」とまたまた大騒ぎ。「頼む、誰でもいい、あいつにバズーカ打ち込んでくれ」と言いたくなるもんだ。これを国家として度ハデに建国前からやってるのが※の国だ。
才能もまさにそうだ。昨日風邪で汗だくになりながらも原稿をうっていた。かなり進んだのだが、熱で多少朦朧とするせいか時々過去の出来事が走馬灯のように頭をよぎった。私の上司だった人が私が書いた報告書をみて「お前、文章を書く才能があるな」と言ったことを思い出した。初めて書いた報告書だった。演出にも言われたことを連鎖的に思い出した。「お前は演出家に向いている。俺の跡継ぎになって台本を書け」 しかし実際どうだろうか。もしこれが才能としたら、ダラダラと永いのは書けても最後まで書く辛抱はなく、最高に面白い!というアイデアはあってもまとめる能力に欠ける。これは自他ともに認めるところだ。文章書くのは早くない。イラスト書いても、書を書いても遅い。眼力に関しても相当褒められた。前にも書いたように「エスパーか」と言われたこともある。逆にわからない人の気持ちがわからない。しかし果たしてそれがナニカの役にたっているかというと、案外そうでもない。全てを都合よくもった才能をもった人もいなくはない。しかし、実際それが何かの役にたっているかというと案外そうでもないのだ。だから天才ほどに現世での評価は必ずしも高くはない。
私の好きな四駒マンガの落ちで、「彼は神のごとき舌を持ちながら、何の役にも立たなかった」という落ちがあって大笑いしたことがある。そうだ、実際世の中そんなものである。私は昔から全ての人に才能は望むと望まざるとにおえずあると思っている。実際にある。ない人を見たことが無い。他人の才能を発掘するのは得意とするところだ。自分の望んだものではないということがポイントだ。たまさか一致する人もいるが、むしろ稀だろう。結局誰しも優れた能力はもっている、しかしそれを生かすも殺すも自分次第ということだ。よくお受験で弱点克服と言うが、私は当時から何やらしっくりこないと思っていた。しかし幼い私は気づいていながら魔法を使ってしまった。今思えば、あ4だなーwwwwww 私は当時から語学系が何故か得意でロクに勉強しなくても成績がよかったので胡坐をかいていた。だからといって語学系が好きなわけでななかった。何せ当時の夢は天文学者だ。数学の世界である。道を誤ってしまった。それを突貫できるほどの意地っ張りでもなかったw 根っからの天下泰平楽タイプなので突貫できない。もう一人俺がいたら話し合って納得しただろうに。まー人との出会いというのも運だしね。その結果がコレだw結局文化の仕事をしている。なんたる無駄なエネルギーだったのだろう。
私は身体がガチガチのうえい肉体的リズム感は皆無だ。私の身体にテンポの速い音楽は宿されていない。声楽の先生から音感は凄いと惚められていた。劇団時代、課題のダンスを覚えるため練習していた私は、いよいよ出来ない自分に半ばサジを投げかけて、思わず吐露してしまう。「○ちゃんは身体も柔らかいし、リズム感もあるから1回見ただけで踊れるのに、私なんか一体何百回やれば覚えられるのか、いやになっちゃいますよ」 と先生に愚痴をもらした。すると、ジャズダンスの先生が、「確かにそうね。彼女は軟らかいし才能もある。でも本当に出来ているかというと全然ダメね」「あれでダメなら、私なんかダメ以前か」「そうね。でも、才能がある人っていうのは絶対に胡坐をかくのよ。才能がない人が出来るようになるにはダメな点を徹底的に潰していかないといけない。そうすると基礎が身体に染み付く。ところが才能がある人は何がダメを知らずに出来るから、スランプに陥った時や調子が悪くなった時に出来ない理由がわからない。才能でできたいたから基礎を丹念にやろうともしない。困った時に基礎に戻ろうともしない。だから小手先にで誤魔化そうとする。そして小手先で誤魔化せる。気づいたら手遅れになるわけ。本当に上手な人は大概不器用な人よ。だから諦めないで。何より大事なのはダンスは楽しむことが最初だから。あなたは型以前にダンスは楽しいと思うところを目指さないと」今思えばありがたい言葉である。
結局才能はあろうがなかろうが関係ないということだ。あったらあったで苦労する。なかったらなかったで苦労する。結局才能があろうがなかろうが胡坐をかいたらその時点で終わりなのだ。やりたければ求めればいい。やりたくなければ横へ置いておけばいい、そしてまたやりたくなったらやればいい。自ら悪い魔法を自らにかける必要はないのだ。人生素直が一番なんだなー。
あーそれにしても蕁麻疹が凄い。
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