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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
02 / 04 Tue 00:55 ×
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11 / 08 Sat 12:41 #ドーラ ×
甥がMGVer2のガンダムを作っている。
4200円もするのなぁw すげーよw グレートだぜw
しかし!
その値段も安いんじゃねーのか!?と思わせる精密なパーツ。
プラモもくせに尋常じゃない分厚い箱と持ったときの重量・・・やっぱ日本ってスゲー!!ニッポン最高!!

昨日仕事から夜帰宅すると、わざわざ制作途中の腕なし上半身ガンダムをもってきてくれた。
凄い・・すさまじい精密な造形に感動しきりである。
そこを母親が、
「そんなに凄いんですか?私はそういう世界は全然わかりません」と仰る。

内心、「それは違うだろ」 と思いながら聞いてた。

師匠ともこのテーマは以前より話していた。美とは共通なのか?私はずっと疑問であった、「○○はわかるけど、○○はわからない」という言葉には何か大きな誤解があるような気がしていた。だから「素人のくせに」とか「やったことないのに何がわかる」と言われることがあるが、それはおかしいと。勿論、素人ではわからない技術的な世界はある。それは当然やったことない素人や、少々やったことある程度の素人に毛が生えた人はわからない。書なんて特にそうだ。しかしそれは美とは異なる価値基準である。この点に関しても師匠とは即合点がいった。

美は共通である。と

感性鈍重で美含有量が少ない作品でも、その技術が極まっていれば美が備わる。それは、たとえ書であれ、油絵であれ、フレスコ画であれ、彫刻であれ、陶芸であれ、パッチワーク、刺繍、人形、プラモ、自動車、電車、工作機械・・・なんであれ同じだ。つまり、プラモをみて、その美がわからないのなら何であれ結局わからないのだ。油絵がわかって、書がわからないなんてのは嘘である。大概の大人で勘違いしている人は多いと思う。わからない筈はない。逆に本当にわからない人も早々はいない。単に真面目に見てないのだ。「わからない」という左脳フィルター、決め付け、思い込みで、感性を遮断してしまっている。ようは見てないのだ。こういう大人の行動が子供の感性を殺す。小手先が器用なだけの絵を上手と勘違いしたりして、本当に美的含有量の高い作品を落選させたりする。大人の罪だ。

「わからない」のではなく、
「わらろうとする気がない」「興味が無い」結果として「見ようとしていない」のだ。

目と同じで、感性も見ようとしなければモノは見えてこない。
目は全ての事象を見てはいるが、脳では瞬間的に取捨選択を行ない見たい情報しか頭に残さない。でないとパンクしてしまう。この真髄が修験道や忍者の隠れ身だったりする。実際に姿が消えるのではなく、限りなく存在を消すことで、実質見えないのと同じ状況を作り出す。学生時代に実験したことがあるが、本気でやると案外存在を消すことができたことに私はいささか驚いた。んが!プラスにもならんw 逆の弊害が出てくるのでおすすめしない。その後で苦労した。

本気で見ようとすれば、見えるはずだ。日本人は美的感受性の優れた国民だと思う。見える人が多い。
だから日本人は下々にわたって製品が優れているし、優れていない製品に対して猛烈に厳しいのだ。
海外の製品の出来栄えや、それに対する捉え方の違いをみると歴然だ。他の国民は平気な人が多い。また、文句をいっても相手が受け入れないとか。日本人は言うほうも、受け入れる方も理解しているのだ。そんな国民は早々いないのではないか。日本の携帯が世界的にトップクラスであるのに世界シェアが数パーセントにしか過ぎないのもそのせいである。

あの緻密さ、精巧さ、バランスが、他のHGやMGシリーズと比較して本気わからないとしたらどんだけ感性の目がチンでるんだ?って思える。んなーはずはない。興味をもってないのだ。子供のすること1つ1つに、真剣に興味をもてっていればそれがなんであれ美であるかいないかはわかる。なんであれ美を見ていないと、目は美を見失う。それは恐ろしいことだ。感性の鈍化は、耳、価値観、行動、全てに現れる。もっと親は子供に興味をもつべきだろう。変な話、AVだってそうだ。センスがあるものとないものは歴然としてる。センスのいいAVを観るべきだ。

ナニがセンスがいいか、
ナニが美なのか、
それを左脳で説いてはいけない。探ってはいけない。
探った時点で美ははるか彼方に遠ざかる。

過去の名品が美と思ってみてもいけない。
美とは自分が決めるものだ。
他の者が決めたものを、美と思って見た時点で、それは美ではなくなる。
さっきの見ていないのと同じことだ。
自分が美である。そう思うものを素直に信じればいい。
そして美だなぁと思うものを次々と観ればいい。
するといつの間にか、美には見えなくなる瞬間がある。

「あきがきたのだ」

飽きたということは、その美は自分の中で食い尽くしたのだ。そこに最早美はない。
次の美を探そう。そうしているうちに、美に対する感受性が養われ、全てにわたって自分が磨かれていることをいつしか気づかされる時がくる。師匠はそれが理由で書を教えている。美的含有量の高い作品は、なんであれ食べても食べても飽きが来ない。美を食べつくせないのだ。

美がわからないのを恥じる必要はない。私も師匠が美だねぇ、とわかるものに美には見えないことも多々あるが、「見えない」と正直に言うし、恥じては居ない。それは後でわかってきて恥ずかしくなることもあるし、いつまでたってもわからないこともある。まずは自分からだ。他人の価値観に振り回される必要はない。

それを甥の母親はわかってない。んが、他の親御さんみたいにギャーギャー言わないだけまだ100倍いい親だ。他の親御さんをみていると、無駄とか、所詮はプラモデルでしょ、とかわかりもしないで子供に言い放ったりする。残酷なはなしだ。子供は凄いもんで、自分の母親がわかってない場合、「言っても無駄だ」と即把握して、その件に関しては一切話しかけない。沈黙してしまうのだ。だから子供が話しかけない親というのは大概このパターンで、子供が悪いのでなく、親が聞く気が無いだけである。なのにうちの子は無口だとかわけわからんない勝手な勘違いをしていることがほとんどだ。言葉を使わずに会話をする子も少なくない、その言葉を交わさない会話を理解できなかったりする。理解しようとしていないのだ。それがわからないのだから今の親たちの罪深さたるや甚だしい。忙しくて余裕がなければ、ちゃんと向き合って「ゴメン、今凄く疲れて余裕がないんだ」と言えば子供は大人より我慢する。それがわかんないんだから一大人として「ヤレヤレだなぁ」と思う。

甥と私で美の感覚は異なるが、互いに互いを否定することしたことがない。違うということを理解しているので、美的談義が出来る。「僕はこういうポーズが好きだ」「おーそれいいね。オジサンはこういうのが好きだ」と「それもカッコイイねぇ」と互いの美を認め合い時には共有しあい、互いの美が刺激され磨きがかかったりする。「コレがいい、コレが一番だ」という決めつかはしたことがない。「僕はコレが一番だ」「私はコレが一番だ」という会話になる。そこで違いを認識し、「ほうほう、そうなんだ」と互いに理解が深まる。

美とは個々人の中にあり、
それでいて共通なのだ。
美的含有量が高いものは、なんであれ美しい。
そういう点で、日本は美に溢れている。

しかし一方で町並みのグロテスクさなどを見ると、公共意識は恐ろしく欠如していることがわかる。
世界どこ探しても日本ほど自由気ままにやって、それが許されている国もそうないだろう。信じられないほど公共意識がない。自由な国だ。これほど自由なのにこれほどカッチリしている国ってのも奇跡の所業だろう。わがままが通ってる国なのだ。

しっかし・・すげー出来だ・・・。信じられない。

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