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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
02 / 04 Tue 18:56 ×
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08 / 16 Thu 00:17 #ドーラ ×
超ド素人だけど、ド素人なりの感想を書かせてもらうと、文章の書き方って実は千差万別なんだね。
当然頭ではわかっていたけど、漢字と同じでそれは漠然とした理解であったんだなぁ~って最近人様の文章を読んで凄く実感した。書(しょ)と同じなんよ。
やっぱり基本もありそうなんだけど、それ学んでいないと書と同じように我流の突飛なものになっちゃうんだよね。それって面白いかもしれないけど真に自分の文を書こうとしたとき、調子が悪ければ必ず躓いてかけなくなる弊に陥るってこと。これ全く芸術なんだよなー。基礎が身についていれば、こういう時には基本にのっとて感情を配して只管技術に徹しないと絶対いきづまってそれこそプロならノイローゼになるやろね。だって、本当にかけなくなるもんな。だから、本当に面白いのを書こうと思ったらやっぱり日本人なら過去の文芸作品をところん読み込んで、自分なりに吸収しないと続きそうもないと実感したよ。

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非常に芸術に通じる香りを感じる。そんなことにハタと気づいたら、気が楽になってバリバリ書けるようになってきたわ。今までは早川書房流に書いていたんよ。何せ私は小学生の頃から日本のSF小説は世界に通用しないと思っていたから、早川の名作シリーズばかり読んでいた。日本の読むと文芸作品以外は中身スッカスカで本当に何度となく心砕かれた。それが変わるきっかけとなったのは新井素子。彼女を知ったのは高校生だったけど衝撃だったね。彼女の本は2000年までコラムもいれて全部読んだかな。コラムは嫌いだけど。んで、大学生で今更ながら筒井康隆という作家を知りダブルパンチ。情緒と緻密さを同時に兼ね備えた作家が日本でもいたと小躍りした。新井素子の本はどれ読んでも同じなのよ。面白いけどね。それがある種水戸黄門的な安心感がありファンになってまた読みたいと思わせる。筒井さんは違うのよね。私の中では。全部違うの。それぞれのワールドがあり同一人物が書いた気がしない読後感がある。私の理想は後者なんだよね。そして夢枕獏さんや菊池秀行にはまり読みまくり飽きた頃に早川に戻った。飽きたって言ったら失礼だな。何せ読み出したらどれも面白いから。特に夢枕獏は止まらないよ。どれほど多くのエンターテイメント作品が彼らのエッセンスをパクっているか!ミスター仙人九十九乱蔵なんて面白すぎて鼻血でちゃうよ。ただ、やっぱり新井素子と同じで水戸黄門なんだよね。良くも悪くも。水戸黄門は私大好きだしエンターテイメントとしては受けるんですよ。海外ドラマなんて全て水戸黄門ですよ。だから大好きなんよね。芸術ではないけどね。文芸作品はやっぱ芸術なんだよね。筒井康隆も芸術の香りがする。

ん?えらく話しがそれたな。
えーっと何が言いたいんだ・・・。そうだ、私は日本人だったって言いたいのよ。にも関わらず私は英米流のやり方で小説を書こうとし続け必ずつまづくんだ。そしてウンザリしている自分を発見し、アイデアは溢れかえっているんだけど蓋をしてしまう。結局、超ショートショートしか仕上がらない。劇団で脚本書かされたときもそうだった。

その原始体験はどこにあるのだろうと思ったけど、それは早川書房の海外SFシリーズなんだな。私は小学校の図書館で読んで以来、あの手の大ファンであり、世界に通じる感覚はあれが王道だと思っている。それは今でも変わらない。実際ハリポタにしてもそうだしね。日本の小説をそのまま海外で訳しても、せいぜい文芸作品ぐらいしか受けなくて、それ以外は見向きもされない。それはまさに文化の違いなんだな。何せ日本は省略の文化だから、会話や行間や間接的な極短い表現で補えることが多い。でも私が敬愛し尊敬するスティーブンキングにしても描写が精密で長いんよ。英字新聞や英字のホームページみてごらん、一発でわかるよ。やたら長いんだ文章が。海外の契約書は数百ページに及ぶことも稀じゃないけど、同じ内容を日本でつくると1/10ぐらいになっちまう。その感覚は日本人でいえばうざったいのよね。「クドイ!」ってなる。でも彼らには必要なんですよ。何せ「バニラ」と「ヴァニラ」が理解できない国民だから。アイスショップで「ヴァニラ」って言ってみるとまず通じない。「ニラ」って言うと2回も言えば通じる。日本人だったら余程アフォーな人でも察するよ。これは文化の違いなんだよね。良し悪しじゃない。日本人のような感覚の方が世界では貴重なんだよ。実際李朝の茶碗だって、見出したのは日本人だもん。現地の人にとっては単なる二束三文の茶碗に過ぎなかったんだから。

またえらく長くなったな。つまり、あの書き方は日本人の感性には今ひとつあわないんだ。日本人はそこまで書かなくても自分なりに想像力を働かせ妄想を楽しむから。英米人は違うのよね。それはどことなくズット感じていたんだ。だから新井さんや夢枕さん読むと心から小躍りする自分を発見する。でも私が目指していたのは海外のSF小説にある緻密な表現で、それを意識的に書いていたし、影響を受けていた。つまり頭で書いていた。ここに感性とのアンバランスがあり最後にはいつも行き詰る自分を発見する。俺日本人だから、やっぱ無理なんだよな。余程技術がない限り。日本的感覚じゃないと書けないってのに気づいた。これで技術があればまた別だと思う。書けると思う。ただ、つまらないものが出来るだろうね。結局はダメなんだ。だから本当にやろうとしたら文芸作品からまた始めないとダメなんだなぁ~って先日痛感しました。コレってまさに芸術と同じ。

私の書いたもの読んでもらうと共通した感想があって、「本嫌いなのにスラスラ読めた」って言われる。私としては”読んでもらってありがたい”って気はしたけど褒められている気はしないかった。お世辞やおべっかもあるとして、それらを差し引いても子持ちの奥さんからも子供からも言われたことがある。ある時、色々あって書き手が変わったら、途端にその小説は読まれなくなった。誰が書いているってあの時は明記してなかったから気づかなかったろうけど、見事に読まれていないことを後で知った。なんでだろうと思って読んだら、えらく読みづらいんだよねその人の文章。エッセンスとしてはとても独創的で面白いのに。なんか一々読み進まない。その人は論説文ばっかり読書していた人なんだ。

海外の小説は基本的に三人称で書かれているんじゃないかな。日本は圧倒的に一人称が多いと思う。三人称や一人称以外に、視点ってのもあって、神の視点か、読者の視点か、作家の視点か。更に時代的角度もあって、現代か近代か歴史か近い夢想する未来か、小説内の時代かってのもある。私は今まで海外SFの王道になぞって三人称現代って視点をベースに実験的に書き続けていたんだけど、色々な人に見せると「描写が細かすぎる」と言われたり「ここで現代の比喩が出るとおかしい」とか言われてきた。でも海外の小説なんて凄くて、余裕でファンタジーなのに「ディズニーのホニャララに似ている」とか比喩が出るのよ。1発で想像できるんだけど、日本ではそういう書き方すると、表現者として失格な空気がある。言葉にできないことさえも表現するのが作家の文章力らしいから。そういうの読みなれている俺としては違和感を感じないけど、読んだことない人にとっては違和感に感じるらしいんだ。確かにどっちが真に優秀か言うたらやっぱ後者かもしれない。だから文芸作品はちゃんと向こうの人にも受け入れられるんだよ。バーン編は三人称未来(小説内の時代設定)で書くことをベースに途中遊びながら一人称現代になったりして意図的にかなり遊んで書いていた。その自由さが続いた理由であった。ただ、それでも基本的には海外SFを理想に掲げていたからどこか突然閉塞感がやってきてかけなくなる。ここへ来て「あー日本人なんだから省略の文化で書けばいいか。読む側に想像の翼を更に伸ばしてもらって」と気づきようやく11話がまとまったと思う。

やっぱ、どこまでいっても日本人であることを忘れちゃいけないね~。
それを捨てては先にはいけないことに気づいた私でした。
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