昨日なーんもせんのにやたら疲れた1日だった。ひっさしぶりにあんなに疲れた。
特にゲームをどっぷりやっていたわけでもなく、ネットで一日中記事などを読んでいただけなのに。1日合計で8時間ぐらい読み、情報を検索していた。尋常じゃなく疲れた。
長年PCに携わってきたなかで確信として言えるのは、デジタルに従事すると肉体的、脳的ダメージが非常に大きいということだ。体を動かすより体が疲れる。劇団時代、半日以上ほぼぶっ通しで仕込みで働かされたが、1日寝たらケロっとした。若さもあるが、それだけではない。デジタルの疲労は中に残る。体の芯に残る疲労だ。
ずっと読んできた医療系の本や体験談からも、肉体は基本的に動くためのものであり、その「動く」とは全身を指すとある。このバランスが崩れ、それが長期間に渡ると体はなんらかの問題を抱え込む。それは予測不能なほど多岐に渡っており、その人のポテンシャルにより全く違う病に蝕まれる。
デジタルは本質的な点で体が悪くならざる終えない仕様になっている。
本質的な点、それは「画面」である。画面をみないでは、あらゆる操作も情報も得ることは出来ない。デジタルというのは目を著しく使う。目を使うということは、本能的に人間の身体は硬直し内臓も硬直することを意味する。目から情報を得ようとする行為はそういう肉体反応が本質的にあるため無意識の行動である。そして目は最も情報量の多いデバイスなので、それ故に脳は忙しくなり他をおろそかにする。そのため硬直するのだ。他の感覚器官を一時的にカットして目からくる情報解析にあらゆる生体パワーを使う。つまり、目からくるものというのは外側、内側含めあらゆる肉体をハードに疲弊させるのだ。
私は最近ほとんどTVを見ない。月、火の昼1時間と、見たい映画がある時ぐらいなもので、ビデオ録画じたいをほぼしなくなった。その結果何を得られたかというと、TVが気にならなくなり「自由」を得られた。その自由さに驚く。放映時間に縛られないのだ。録画したのを見なきゃと、心も縛られない。だから見たいものがあり、見逃したと思っても、全く気にならなくなった。別に見なくても何も人生は変わらない。月に1本ぐらい録画しても、録画したのをほぼ見ていない。なぜか見始めると古く感じ、見ること自体が面倒になり止めてしまう。TVは自由を奪う道具であったかと今更ながら驚く。
その点で情報発信機器としてラジオは優れいている。ラジオは耳からの情報だ。耳から聞くことが前提なので情報量は少なく、耳から入ることを前提に構成されている。人は元々耳からの情報は聞き流せるように古来より訓練されている。耳からの情報は手をとめさせない。状態をほとんど選ばない。走っていても聞ける。画面を見ていても聞ける。他のことしながらでも聞ける。というのも、主たる作業は目にあるからだ。目が向いている作業に人は集中しようとする。耳はその次になる。なので、手をとめずに聞いていられるし、いつのまにか聞いていなくても平気である。
以前、ラジオ番組の地方深夜枠のディレクターに言った。「これからのラジオの可能性は絶大ですよ!」 彼は「へー」で終わりだ。「ダメだこりゃ(イカリヤ長さん風に」と内心思った。耳からの情報は自由を束縛しない。ただ問題は音声記録装置の発達が遅かった。それも今や解決されている。ラジオサーバーがあったり、どこでも小型ラジオをきけて、すぐ録音まで出来る装置がごまんとできる。ただ、ここで漫然と録音しては意味がない。なぜなら録音は自由を奪う行為であるからだ。録音したものを聞くという行為は心的負荷を生む。前提は即ち即心の負荷になる。ラジオのよさも殺してしまう。ラジオはほぼ生もの(生放送)でありそこに大きな価値がある。臨場感やライブ感がTVとは桁違いである。TVでは100%禁止用語でも、ラジオならバンバン言っている。話題の方向性いかようにでもディレクターの指示を半ば無視して暴走できる。土曜の久米さんがやっている「ラジオなんですけど」など典型だ。時にはゲストがほぼ全く喋らずに返してしまうこともあり、久米さんも笑いながら平謝りしたりする。これでいいのだ。この臨場感が凄い。この一体感がたまらない。TVはその資質上生はあらゆる困難を抱えている。向いていない。ラジオはその性質上において出演者は限られる。3人、せいぜい4人が限界であり、それを超すと聞いている方が混乱してしまうのだ。3人で回し1人はほとんど黙るなどの役割が必要で、主に喋っているのは2人が理想である。井戸端会議にじっと耳を傾けている感覚に近いかもしれない。それでいてTVより情報を掘り下げ鋭いところをつくので非常に面白い。
ぽっどキャストの登場も大きい。ラジオを聴いていると世界に出た日本人が日本語恋しさにぽっどキャストで今の生の日本語を聞いていかに楽しんでいるかが伺える。私はかなり多くのぽっどキャストをチェケラしているが基本的に過去のデータは拾わない。過去のデータは済んだことだ。聞く必要がない。番組研究でもするのでない限り不要な行為である。過去を振り返るのはほとんどの場合無駄な行為になる。TVの録画と同じように心を束縛する行為である。基本的には生で聞いて、聞けなかった放送はスルーするのが望ましい。情報発信という意味で、これからぽっどキャストには大きな可能性を感じる。
目という点で本はどうかというと束縛しない。
本の素晴らしい点は、1ページでも読める。1行でも読める。1文字でも読める。嫌になった時点で即やめられる。歩きながらでも、料理しながらでも、電車に乗っていても読める。またメディアにありがちな記録する必要がない。何せ元々記録されたものを読んでいるからだ。じゃー携帯でも同じやん!と思うが全く違う。携帯の情報は機種が変わったりソフトが変われば情報はいずれ読めなくなる。何より本が決定的に優れているのは、パラパラとめくり厚みを感じたり、どこからでもいくらでもランダムに読めるのだ。本は五感を使うが、デジタルデバイスはやはり基本的に目と手だけという点で共通だ。本は目というデバイスを使いながら自由度が高いほとんど唯一の媒体であろう。
師匠をみていても、目を何に使うかでその人の人生はある程度決まってしまうなーと思うことがある。
昨夜は大よそ虚しいことをしてしまったと後悔している。疲れぞんだw目の使い方を考えないといかんなーと思った夜だった。TVからは自由になれたので、今度はパソコンから自由になれれば完璧だ。俺は初めて自由を得られると思う。当然その時にはゲームは卒業せざる終えないが、最近モンハンをやりながら、ゲームって本来これぐらいが丁度いいよなと思っていた。1日1時間ぐらい。その程度なら全く邪魔にならない。やりすぎるから障害となるのだ。ハマらないようにハマル。・・・難しいw これからは用が無い時はパソコンの前にいないように努力したい。仕事せんでパソコンの前にいることが多いと、かなり無益なことをしている自分がいるw
ま、私はまだ自由なほうだ。何せ携帯という拘束機から開放されている。携帯をみるのは3日に1回あればいいほうだ。当然着信があったのに気づくのも3日後だ。着信ランプがついていなければ1週間と気づかない。そういう意味では今の人は自由を奪われていると思う。その恐ろしさに気づく頃には俺みたいにオッサンになっていることだろうwwwww
少年老いやすく、学なりがたし だなー!!
特にゲームをどっぷりやっていたわけでもなく、ネットで一日中記事などを読んでいただけなのに。1日合計で8時間ぐらい読み、情報を検索していた。尋常じゃなく疲れた。
長年PCに携わってきたなかで確信として言えるのは、デジタルに従事すると肉体的、脳的ダメージが非常に大きいということだ。体を動かすより体が疲れる。劇団時代、半日以上ほぼぶっ通しで仕込みで働かされたが、1日寝たらケロっとした。若さもあるが、それだけではない。デジタルの疲労は中に残る。体の芯に残る疲労だ。
ずっと読んできた医療系の本や体験談からも、肉体は基本的に動くためのものであり、その「動く」とは全身を指すとある。このバランスが崩れ、それが長期間に渡ると体はなんらかの問題を抱え込む。それは予測不能なほど多岐に渡っており、その人のポテンシャルにより全く違う病に蝕まれる。
デジタルは本質的な点で体が悪くならざる終えない仕様になっている。
本質的な点、それは「画面」である。画面をみないでは、あらゆる操作も情報も得ることは出来ない。デジタルというのは目を著しく使う。目を使うということは、本能的に人間の身体は硬直し内臓も硬直することを意味する。目から情報を得ようとする行為はそういう肉体反応が本質的にあるため無意識の行動である。そして目は最も情報量の多いデバイスなので、それ故に脳は忙しくなり他をおろそかにする。そのため硬直するのだ。他の感覚器官を一時的にカットして目からくる情報解析にあらゆる生体パワーを使う。つまり、目からくるものというのは外側、内側含めあらゆる肉体をハードに疲弊させるのだ。
私は最近ほとんどTVを見ない。月、火の昼1時間と、見たい映画がある時ぐらいなもので、ビデオ録画じたいをほぼしなくなった。その結果何を得られたかというと、TVが気にならなくなり「自由」を得られた。その自由さに驚く。放映時間に縛られないのだ。録画したのを見なきゃと、心も縛られない。だから見たいものがあり、見逃したと思っても、全く気にならなくなった。別に見なくても何も人生は変わらない。月に1本ぐらい録画しても、録画したのをほぼ見ていない。なぜか見始めると古く感じ、見ること自体が面倒になり止めてしまう。TVは自由を奪う道具であったかと今更ながら驚く。
その点で情報発信機器としてラジオは優れいている。ラジオは耳からの情報だ。耳から聞くことが前提なので情報量は少なく、耳から入ることを前提に構成されている。人は元々耳からの情報は聞き流せるように古来より訓練されている。耳からの情報は手をとめさせない。状態をほとんど選ばない。走っていても聞ける。画面を見ていても聞ける。他のことしながらでも聞ける。というのも、主たる作業は目にあるからだ。目が向いている作業に人は集中しようとする。耳はその次になる。なので、手をとめずに聞いていられるし、いつのまにか聞いていなくても平気である。
以前、ラジオ番組の地方深夜枠のディレクターに言った。「これからのラジオの可能性は絶大ですよ!」 彼は「へー」で終わりだ。「ダメだこりゃ(イカリヤ長さん風に」と内心思った。耳からの情報は自由を束縛しない。ただ問題は音声記録装置の発達が遅かった。それも今や解決されている。ラジオサーバーがあったり、どこでも小型ラジオをきけて、すぐ録音まで出来る装置がごまんとできる。ただ、ここで漫然と録音しては意味がない。なぜなら録音は自由を奪う行為であるからだ。録音したものを聞くという行為は心的負荷を生む。前提は即ち即心の負荷になる。ラジオのよさも殺してしまう。ラジオはほぼ生もの(生放送)でありそこに大きな価値がある。臨場感やライブ感がTVとは桁違いである。TVでは100%禁止用語でも、ラジオならバンバン言っている。話題の方向性いかようにでもディレクターの指示を半ば無視して暴走できる。土曜の久米さんがやっている「ラジオなんですけど」など典型だ。時にはゲストがほぼ全く喋らずに返してしまうこともあり、久米さんも笑いながら平謝りしたりする。これでいいのだ。この臨場感が凄い。この一体感がたまらない。TVはその資質上生はあらゆる困難を抱えている。向いていない。ラジオはその性質上において出演者は限られる。3人、せいぜい4人が限界であり、それを超すと聞いている方が混乱してしまうのだ。3人で回し1人はほとんど黙るなどの役割が必要で、主に喋っているのは2人が理想である。井戸端会議にじっと耳を傾けている感覚に近いかもしれない。それでいてTVより情報を掘り下げ鋭いところをつくので非常に面白い。
ぽっどキャストの登場も大きい。ラジオを聴いていると世界に出た日本人が日本語恋しさにぽっどキャストで今の生の日本語を聞いていかに楽しんでいるかが伺える。私はかなり多くのぽっどキャストをチェケラしているが基本的に過去のデータは拾わない。過去のデータは済んだことだ。聞く必要がない。番組研究でもするのでない限り不要な行為である。過去を振り返るのはほとんどの場合無駄な行為になる。TVの録画と同じように心を束縛する行為である。基本的には生で聞いて、聞けなかった放送はスルーするのが望ましい。情報発信という意味で、これからぽっどキャストには大きな可能性を感じる。
目という点で本はどうかというと束縛しない。
本の素晴らしい点は、1ページでも読める。1行でも読める。1文字でも読める。嫌になった時点で即やめられる。歩きながらでも、料理しながらでも、電車に乗っていても読める。またメディアにありがちな記録する必要がない。何せ元々記録されたものを読んでいるからだ。じゃー携帯でも同じやん!と思うが全く違う。携帯の情報は機種が変わったりソフトが変われば情報はいずれ読めなくなる。何より本が決定的に優れているのは、パラパラとめくり厚みを感じたり、どこからでもいくらでもランダムに読めるのだ。本は五感を使うが、デジタルデバイスはやはり基本的に目と手だけという点で共通だ。本は目というデバイスを使いながら自由度が高いほとんど唯一の媒体であろう。
師匠をみていても、目を何に使うかでその人の人生はある程度決まってしまうなーと思うことがある。
昨夜は大よそ虚しいことをしてしまったと後悔している。疲れぞんだw目の使い方を考えないといかんなーと思った夜だった。TVからは自由になれたので、今度はパソコンから自由になれれば完璧だ。俺は初めて自由を得られると思う。当然その時にはゲームは卒業せざる終えないが、最近モンハンをやりながら、ゲームって本来これぐらいが丁度いいよなと思っていた。1日1時間ぐらい。その程度なら全く邪魔にならない。やりすぎるから障害となるのだ。ハマらないようにハマル。・・・難しいw これからは用が無い時はパソコンの前にいないように努力したい。仕事せんでパソコンの前にいることが多いと、かなり無益なことをしている自分がいるw
ま、私はまだ自由なほうだ。何せ携帯という拘束機から開放されている。携帯をみるのは3日に1回あればいいほうだ。当然着信があったのに気づくのも3日後だ。着信ランプがついていなければ1週間と気づかない。そういう意味では今の人は自由を奪われていると思う。その恐ろしさに気づく頃には俺みたいにオッサンになっていることだろうwwwww
少年老いやすく、学なりがたし だなー!!
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まぁやっぱさ
11 / 21 Sat
17:59
どちらかというとロボ路線の方が手っ取り早いと思うけどね。考えるのは全てロボにまかせて、プラグインする機能は限られると。そして人類総パープリンになって、全員超メタボw 買うならメーテルみたいなロボっとがいいな。そして色々やってもらおーっとwww 嫁もいらんなw
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11 / 21 Sat
17:14
できる日まで人間はデジタルに自由を奪われる率は今後一層増すだろうね。プラグインまでいっちゃって初めてデジタルの意味が出てくる。世界変わると思う。その頃は俺も機械の体か・・・・w 出来ればナイスバディのねーちゃんがエエナーwwww
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11 / 21 Sat
17:05
一日の30%はPC、30%はTV、30%は就寝。残りのわずかな時間で携帯をいじっている私… ネットは広大だわ。