師匠の活動について雑談にも似た話し合いが行われた。想像力は往々にして足元を滑らせる。直観力を萎えさせる。一人相撲で終わってしまう。世にいかに一人相撲が多いことか。自分の過去を振り返っても、全てが夢幻、つまり一人相撲であったと言えるほどだ。一人相撲は何も生み出さないことをこの年でようやく得心した。
だから何も考えずに出向いた。昔は職業的にも性格的にも戦略を考えるタイプなので、事前に色々想定して心を固めてから臨んだ。でも、そうしたことがそもそもの決断を誤る元になっていると今は思っている。策士策におぼれるといったところだ。想定というのは固定点を設けることから始まる。固定点は生命のアグレッシブさを否定するところから始まる。すると自由度が失われる。自分の小さな世界で自己完結してしまい大きな歩みが出来ない。だから自分の中で自分のスタンスや方向性だけ明確化すれば後は本番のみ。そう決めた。空っぽにして、出かける。
なるほど、そういうことか。やはり人づての言葉というのは恐ろしい、微妙なニュアンスが異なってくる。そのニュアンスが全てを決定付けることが人間関係においては往々にしてある。多分そうではなかろうかと思っていたがやはりそうであった。相手の主張を伺ったうえで、こちらはこちらのスタンスを明確化させる。どうやらバンザイする必要はないようだ。バンザイしない場合、テリトリーの危うさが出てくるが、その点も明確化してきた。そこは極めて重要だ。後で言った言わないの問題になり大きな争点となる。そもそもの動機やご縁を伺い、「なるほど、これなら何の問題があろうか!」という結論にいたる。一旦は看板を下ろさなくてはいけないが、それは仕方なのないところだ。当初からそういうつもりだったし、そこにこだわるつもりはない。それが双方のためだろう。
それにしても仕事上仁義のある会話を久しぶりにした気がする。久しぶり?・・・初めてか・・そんなことはないか。今の日本のビジネスシーンには仁義が一切ない。法律上正しければ稼いだものが勝ちだという行いが平然とまかり通っている。リドリースコット監督のブラックレインでもまさにその台詞があった。仁義を捨てた時から日本は、世界は狂ってきた。その先には破滅しかないのに、自分には破滅がこないと考える。ところがどうであろうか、今の地球は?現在の経済は?破滅へ向けてまっしぐらである。今でこそゴミの分別を出来る人が増えたが、そういう意識もない頃からしている私は当時「あんた一人がそんなことしても何にもならんよ」と嘲られたものである。「そういう傲慢さが世界を意図も簡単に破滅へ導くんだけどね」と言い返したもんだ。究極的には、私は納得がいかないから分別していただけのことである。それこそ神経質にやっていたわけでもない。「おかしい」ものはどう転んでもおかしいのだ。自分で納得がいかないからやっていただけ。しかもそれでもなお現在では懲りない連中ばかりである。地球が破滅する直前まで懲りないだろう。そういうレールをしき、そういう電車を光のごとく飛ばしているのだ。当然そうなるであろう。
彼は非常に仁義のある男だと思った。あの若さであの感覚をどこで身に着けたのか非常に興味がある。今度会うことがあれば色々聞きたいものだ。彼があの基本的姿勢であるなら悪くなりようがない。私も同じ方向性であるからだ。互いの方向性がズレていれば必ず問題はおこる。微妙なズレは互いのフラストレーションを、あたかも雪が深々と積もるようになりため、朝起きるとその取り返しのつかない事態に気づくものだ。恐ろしいものだ。なので敢えて突っ込んだ話もしてみた。「こういうケースであれば御社どう考える?」「こうであれば?」その答えは終始一貫した態度であった。まー現実が変転するように、事態によっては彼の考えも変わることがあるだろう。しかしそれは生きているので当然である。ただし、彼の動機が、基本姿勢がそれであれば致し方のないことだ。私は全てにわたって動機を大切にする。その人の動機が悪ければ、どんなに一時は良くても悪くしか転がらない。だから私は動機が明白に悪いメーカーの製品はどんなに一世風靡しようがスタンダードになろうが使わない主義だ。N天が嫌いなのはそこである。だから買わない。何であろうと。どんなにA社の調理器具がよかろうが、会社としての動機が悪いから買わない。後悔しかないからだ。悪い動機をもつものは、人間であろうが組織であろうが、会社であろうが、悪いようにしかならない。世間で全くグーグルが認知されていないころから使っていたのも、彼らには明確な動機があったからだ。「悪にはならない」という。だから今でも検索はグーグルしか使わない。動機が悪ければ結局最後はダメになる。
しかし、不思議なものだ。社会人であれほど多くの分野の人と関わってきた私が、あれほど仁義のある人と出会ってこなかったのにサラリーマンを辞めた後で今こんな状況で出会うとは人間捨てたもんじゃないねぇ。やはり生きて生きていきとおさないと出会えない人、出会えない作品、出会えない事象というものはあるものだ。それにしても今日はやけに苦しい。甲状腺が炎症しているようで痰で溺れそうだ。いつ治るんだ?俺の壊れた免疫システムはどうなってるんだ。降りしきる雪さえもどこか暖かく見えた夜でした。
だから何も考えずに出向いた。昔は職業的にも性格的にも戦略を考えるタイプなので、事前に色々想定して心を固めてから臨んだ。でも、そうしたことがそもそもの決断を誤る元になっていると今は思っている。策士策におぼれるといったところだ。想定というのは固定点を設けることから始まる。固定点は生命のアグレッシブさを否定するところから始まる。すると自由度が失われる。自分の小さな世界で自己完結してしまい大きな歩みが出来ない。だから自分の中で自分のスタンスや方向性だけ明確化すれば後は本番のみ。そう決めた。空っぽにして、出かける。
なるほど、そういうことか。やはり人づての言葉というのは恐ろしい、微妙なニュアンスが異なってくる。そのニュアンスが全てを決定付けることが人間関係においては往々にしてある。多分そうではなかろうかと思っていたがやはりそうであった。相手の主張を伺ったうえで、こちらはこちらのスタンスを明確化させる。どうやらバンザイする必要はないようだ。バンザイしない場合、テリトリーの危うさが出てくるが、その点も明確化してきた。そこは極めて重要だ。後で言った言わないの問題になり大きな争点となる。そもそもの動機やご縁を伺い、「なるほど、これなら何の問題があろうか!」という結論にいたる。一旦は看板を下ろさなくてはいけないが、それは仕方なのないところだ。当初からそういうつもりだったし、そこにこだわるつもりはない。それが双方のためだろう。
それにしても仕事上仁義のある会話を久しぶりにした気がする。久しぶり?・・・初めてか・・そんなことはないか。今の日本のビジネスシーンには仁義が一切ない。法律上正しければ稼いだものが勝ちだという行いが平然とまかり通っている。リドリースコット監督のブラックレインでもまさにその台詞があった。仁義を捨てた時から日本は、世界は狂ってきた。その先には破滅しかないのに、自分には破滅がこないと考える。ところがどうであろうか、今の地球は?現在の経済は?破滅へ向けてまっしぐらである。今でこそゴミの分別を出来る人が増えたが、そういう意識もない頃からしている私は当時「あんた一人がそんなことしても何にもならんよ」と嘲られたものである。「そういう傲慢さが世界を意図も簡単に破滅へ導くんだけどね」と言い返したもんだ。究極的には、私は納得がいかないから分別していただけのことである。それこそ神経質にやっていたわけでもない。「おかしい」ものはどう転んでもおかしいのだ。自分で納得がいかないからやっていただけ。しかもそれでもなお現在では懲りない連中ばかりである。地球が破滅する直前まで懲りないだろう。そういうレールをしき、そういう電車を光のごとく飛ばしているのだ。当然そうなるであろう。
彼は非常に仁義のある男だと思った。あの若さであの感覚をどこで身に着けたのか非常に興味がある。今度会うことがあれば色々聞きたいものだ。彼があの基本的姿勢であるなら悪くなりようがない。私も同じ方向性であるからだ。互いの方向性がズレていれば必ず問題はおこる。微妙なズレは互いのフラストレーションを、あたかも雪が深々と積もるようになりため、朝起きるとその取り返しのつかない事態に気づくものだ。恐ろしいものだ。なので敢えて突っ込んだ話もしてみた。「こういうケースであれば御社どう考える?」「こうであれば?」その答えは終始一貫した態度であった。まー現実が変転するように、事態によっては彼の考えも変わることがあるだろう。しかしそれは生きているので当然である。ただし、彼の動機が、基本姿勢がそれであれば致し方のないことだ。私は全てにわたって動機を大切にする。その人の動機が悪ければ、どんなに一時は良くても悪くしか転がらない。だから私は動機が明白に悪いメーカーの製品はどんなに一世風靡しようがスタンダードになろうが使わない主義だ。N天が嫌いなのはそこである。だから買わない。何であろうと。どんなにA社の調理器具がよかろうが、会社としての動機が悪いから買わない。後悔しかないからだ。悪い動機をもつものは、人間であろうが組織であろうが、会社であろうが、悪いようにしかならない。世間で全くグーグルが認知されていないころから使っていたのも、彼らには明確な動機があったからだ。「悪にはならない」という。だから今でも検索はグーグルしか使わない。動機が悪ければ結局最後はダメになる。
しかし、不思議なものだ。社会人であれほど多くの分野の人と関わってきた私が、あれほど仁義のある人と出会ってこなかったのにサラリーマンを辞めた後で今こんな状況で出会うとは人間捨てたもんじゃないねぇ。やはり生きて生きていきとおさないと出会えない人、出会えない作品、出会えない事象というものはあるものだ。それにしても今日はやけに苦しい。甲状腺が炎症しているようで痰で溺れそうだ。いつ治るんだ?俺の壊れた免疫システムはどうなってるんだ。降りしきる雪さえもどこか暖かく見えた夜でした。
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