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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
02 / 03 Mon 19:18 ×
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11 / 02 Sun 19:41 #ドーラ ×
最近の私は人が変わってしかったかのようだ。と、自分で思う。周りからみたら変わらないのだろうけどw
ことあるごとに、意識と無意識について思いを寄せ、茂木さんの本を読み出した。タイトル「意識とは何か」そのものズバリである。
逝ってしまったゴッホの気持ちが今は痛いほどわかる気がする。あの日以来私は自分の写真を撮り続けている。何で撮りだしたのは、撮ろうと思ったのか。自分ではなくなりそうな何かを感じ、恐ろしくなったからかもしれない。朝、まず顔と喉を撮る。喉はわかる。アトピーの関係で自分の経過をとっていた時期もあった。写真というのは客観性をえるのに優れた機械だ。自分でも過去のアトピー自分標本をみると驚くことが多々ある。しかし、顔を撮る必要はないはず。だが、それはやはり恐怖だったのだろう。わからない人はわからないが、人間豹変することがある。そこには兆しがあり、長い、もしくは短い兆しの果てに豹変する。それをよくわかっているので、自分の豹変する兆しを左脳で理解するよりも早く察知しなければ命に関わるのでは!?という恐れがあったのだと思う。
写真に写った自分というのは最早自分ではない。誰かである。撮った瞬間はまだ自分に近いものであるが時とともに薄れていく。それは書でも同じだ。書作品に取り組んでいる時は、「すげー!いいのできた!」と思っても翌日見上げて「誰だこのショボイの書いたのは」と思う自分がいる。時間が空くと客観性がでるのだ。その天に関しては全て同じだ。夢の中で笑いが止まらないことがあり、それを他人に話しているうちに 「どこが面白いんだ?」と自分で不思議に思ったことがないだろうか。全てにおいてそうである。渦中にいる時は自分ではわからないものだ。自分に近い存在が必ずしも有益とは限らないのに、近いが故に有益に無条件で感じたりするのと同じだ。「近い」もしくは「同一視」というのは事実とはことなる思い込みを生む。

この最たるものが自分である。ゴッホはその果てに自分を滅することになった。文学者にそういう人が多いのも今なら凄くよくわかる気がする。左脳によるその探求には限界がありそこに答えはない。答えがない答えをだそうとするとパソコンが簡単にフリーズするのと同じで、理屈には限界があるのだ。そう考えると、ゴッホは極めて知的な左脳人間だったのかもしれない。自分を探求するという意識は左脳そのものである。なぜなら右脳にとって、自分とは肉そのものでありある意味考えるという領域にはない。把握する領域である。だから文学者が自分を滅する選択しを選ぶのが実感をもってわかる。今ここに到って何故人間は究極的に説いていくと宗教学に入っていくのか凄く理解できる。そこへ通じてしまうのだ。逆にそこに通じないと自ら滅するという選択しをとりがちだ。

これもバランスなのだ。左脳と右脳のバランスが崩れるとそうなってしまう。人左脳のみで生きてはいけない。しかし右脳のみでは生きていける。文学者や芸術家というのは高い創造性、左脳を使う。それ故に陥ってしまうのだろう。解決のない深淵に捉えられてしまう。人は無条件に得たいの知れないものには恐怖を感じる。それは左脳がではなく、右脳が反応するのだと思う。自己の存在、そして生と死には理屈を越えたものがあり決して左脳では解決できない問題である。深淵に飲まれると探究心はいつしか恐怖に変わり、そもそも答えがないので恐怖は加速度的に左脳を飲み込む。

私は小学生の時にそれを感じた。

ほとんどの事象には理屈がつけられ、納得ができるのに、この生と死、(当時はさすがに自己という側面には幸いアプローチがいかなかった)には説明がつかない。「なぜ生きてるの?なんで生きているって思っているの?」「なんで死ぬの?なんで死ぬのに生まれたの?」 解決の糸口もない深淵に飲まれ、それは圧倒的な恐怖となり、虜になった。ある朝ふっと「今日死のう」と思った。そして朝礼の後、校歌を歌いながら 「あーこれで皆ともお別れだ」と思い一人涙ぐんだことが何度もあった。私の原点はそこである。決定的に今と違ったのは小学生だったことだ。そんな哲学的なことに思いをはせる私だったが、所詮は小学生。友人との遊びが楽しかったりすると、「ん・・・明日でいいか」と軽く考え、遊びに没頭する。しかし時間が出来ると恐怖再燃。そこでまた「さー死のう」と具体的なプランも実感もないまま出かけようとする。「もう暗いのにどこ行くの?」と母に声をかけられ、内心「母さんゴメンね、僕死ぬんだ」と喋りかけ、「ちょっとそこまで」と言い出かけようとする。「カレーもう出来るから冷めないうちにね」と言われると、「カレー!!」(今も昔も大好物だ)それだけで、「・・・カレー食べてからにしよう」と思ったりしたものだ。そんなことを気の遠くなるぐらいに繰り返した。

大人になると自らを滅する人が多いのはこの差だ。この子供の反応はまさに即物的で左脳ではなく右脳の反応である。大人の圧倒的大多数は左脳人間なので左脳で試行すると、リーマンショックであーだこーだ、世間は倒産に拍車がかかり未来があーだこーだ、日本は借金返済不可能だからあーだこーだ、と来てもいない、また、正確に捉えていない、捉えられない事象に左脳をフル回転させ、絶望する。これは短くまとめちゃうと、「妄想」である。妄想に支配され、支配された左脳は右脳に支持を出す。子供は違う。子供は左脳がまだ未発達なので、右脳を中心に生きている。先日もそう思わせることがあった。甥っ子がベトナムから帰って来た。色々お土産話が聞けるかなーと思っていたら、甥っ子は一切ベトナムの話はしない。質問しても「楽しかった」「良かった」とか超短い返事しか返ってこず、「あー興味ないんだな」ということを物語っていた。甥っ子はしきりに私と遊びたがり互いにつくったガンダムプラモを見せ合ったりガンダム談義で盛り上がったり、今流行っている携帯捜査官の説明をしてくれたりと大ハシャギだ。しかも目はトローンとして明らかに眠そうになっても「いや、まだオジサンと遊びたい」と行って帰ろうとしない。「眠いでしょ」と言っても「眠くない!」といった感じだ。大人の発想では、「せっかくベトナムにいったんだから・・・」とつい固定的に思ってしまうが、子供は常に今をダイナミックに生きているので大人とは逆に左脳を無視して右脳感覚優先で生きているからこうなるのだろう。彼からしたら、たとえ昨日のことであってもベトナム旅行は過去の話である。彼の中では終わっているのだ。今は、”オジサンと遊ぶ”ということが生きる意味そのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

感動だ。

子供の素晴らしさはここにある。そんな話を大人にすると大人はすぐ屁理屈で応酬する。「大人には社会がある。そうもいってられないでしょう」 私も実際、先生から全く同じ話をされ続けたが、そう言い返してきた。だが、今更ながら疑問符がつく。本当にそうなのか?そもそも「やってもいねーじゃん」そこだ。そもそもヤッテもいないのに妄想、推測、憶測だけで否定している。これは左脳の働きだ。つまりこの時点で右脳的要素は何一ついれていない。そこに改めて気がづいた。甥っ子には明日一緒にベトナムビデオ上映会の後、遊ぶということで帰ってもらったw




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意識と無意識の合間を、左脳と右脳の合間と置き換えて最近思いを馳せている。そもそも人間は右脳中心に生きてきた。それがここ100年少々左脳よりに生きている、いかざるおえない環境になっているに過ぎない。いや、もっと近代か。それこそ明治ぐらいまでは日本人なんか実にいい加減であったことが文献を読むとわかる。そもそも名前なんていい加減だった。流行の名前にすぐ変えちゃうのだ。そしてそれが通っていた。それが昭和初期に郵便システムが導入され、それじゃ困るってんで固定されたに過ぎない。つまり便宜上のものでしかない。これもパソコンに似ている。高度なプログラムや大規模なシステムになるほど決め事が多くなる。全体としての取り決め、部分の取り決め、最も細かいくくりでの取り決め。OSなんかその際たるものだが、全てを把握している人は一人もいない。一人もいないのに動いている。完璧ではないのだ。完璧を目指したアップルは世界の市場から後退し、適当なウィンドウズが世界を席捲することになる。完璧に近づくということはルールが多くなることを意味する。しかも矛盾点をしらみつぶしにしていけばルールに厳格さが増し、ソフトを作るどころではなくなってしまうのだ。当時アップルのソフト開発者はそういっていた。アップルはルールのしばりが強すぎて作りたくない。そもそもプログラムなんて遊びから生まれたようなものである。創造性をいかせられず、がんじがらめのルールありきでは作りたくなるはずもない。故に使いにくくなり、ユーザーもいなくなる。

今の社会がコレだ。その最先端がアメリカとかではなかろうか。ルールというのは非情だ。是も非もない。ルールだか、と矛盾していても死刑にあったりする。恐ろしい。そもそも人間が完璧じゃないのに、コンピュータですら完璧にはほど遠いのに、人間の社会がルールシバリだけでいけるはずもない。論拠の崩壊である。そして人間はそもそも生物である。つまりどんなに道具が進化しようが生物である以上は右脳優先で生存している。右手を動かすのにいちいち考えるだろうか?自立神経に関する本を読んでいる時、白血球についての記述があり驚いた。先日も書いたが白血球のほとんどは自分の体内に警戒の目を走らせているのだ。外部からの問題は全体からしたら極わずかでしかない。これを読んでも、つまり人間とは我であり、社会のために何かをするわけでもなく、他人のために何かをするわけでもなく、自分のために何かをするのである。そしてその自分のためとは右脳からくる直感反応による感覚のほうが大きいと考えられる。日本人なんて明治まではそうして生きてきたんだ。まだ戻れそうな気がする。そしてその方が人として、何より生物として自然であり、当然であるような気がする。すくなてくも自分だけでもそうしようと思った。いい見本が傍に居る。先生だ。先生は昔からそう生きてきたし、今もそう生きている。その生き方にほとんどの人は異を唱えるが先生はどこふく風だ。それでいいような気がする。これだけ自らを滅する人が多くなったのは左脳という小さな宇宙で自己崩壊をおこしてしまっているからだと思えてくる。すくなくても少々周囲に迷惑がかかっても自らの命を滅したり、他人の命を滅したりすることに比べたら遥かにましだろうと思う。より人という自然物に回帰するには、やはり左脳を使うのは一時的に限り、普段はオフにすることがよいだろう。まーこれが今の私の最大の課題なのだが・・・出来そう出来ない。やり方はわかったので後は自然に、無意識に出来るまで繰り返すしかないのだろう。私は右脳優先でこれから活きたい。とはいえ、まだまだ思索は必要だろう。これからも本を読んだり自分を通して色々実験していこうと思う。

最近、ようやく自分のスタンドと仲良くなれだした気がする。スタンドに飲まれたら、自滅か発狂の2つに1つしかないだろう。事実、9月は自滅衝動に駆られかなり危なかった。朝の電車のアレはこうして起きるのか、と自らを客観視したぐらいだが、それとは関係なく衝動が起きるのだ。これは経験しないとわからない感覚だった。電車で通っていたら、いっていたかもしれない。可能性はけして低くないように思えた。しかもそうすることが幸せですらある感覚だった。左脳を探ってもほとんと理由らしきものがないのにそうなる。過去の文学者や芸術家、また一般の方がそうであったように。彼らもこういう心境の延長線に違いないと思えた。とても危険な道のような気もするが、あの日以来もうその道に強制的にシフトされてしまったのでもう戻れない。その点は諦めた。出てきたスタンドを自らの意思、左脳の力では押しかえせそうにない。過去は終わった。今はこの道をどう活かして歩むかだ。しかしその活路が見出せたような気がする。昨今、そうした思索と感覚から多重○格の感覚も少し理解できた気がする。「なるほど」と思った。

簡単に例えるとパソコンのHDDを複数に分割した状態と思えばいい。HDDは1つ、OSが場合によっては複数でそれが深刻さによると思う。複数にしきられたドライブはまるで別個に存在するかのように振舞う。しかも各ドライブの資源を自在に活用できる状態にあり、だから知的資源も当然のように共有出来るのだ。同時に遮断することも出来る。同一人格時はそれを1つの意志のもと自由勝手に使うが、逆に特定のエリアしか敢えて使わない状態がソレだ。大元は1つのディスクである。仮にOSが複数あってもHDDは1つだし、何より大元になるバイオスも1つだ。なるほどねぇ。と、勝手に納得がいった。だからああいうことが起こりうる。元は1つである。これは左脳右脳問題そのものだ。左脳の自分は魂に近い自分、右脳の自分は肉体に近い自分だ。どっちも自分であり双方は勝手に動いている。が、大元は1つであり、とりもなおさず自分という存在が、安全で、かつ好きなように生きられるよう動いているだけだ。ある一定の範囲内で。

この一定の範囲内というのが大問題だ。

社会とは左脳分野である。それが今は行き過ぎて苛烈に左脳を酷使する社会になってしまった。本来人間は無意識に生命活動が維持できるように右脳主体に活動している。犬猫と同じと思われる。つまり生物としては右脳優勢なのだ。それは、考えていては命がいくつあっても足りないからである。にも関わらず昨今急にしきられたインフラのせいで急速に左脳社会を形成してしまった。そもそも昔と比べれば基本的に生命の脅威や天敵は日常にいない。余計に左脳優位の暮らしになる。生物ってのは極めて純真で、順応なので真摯にそれを遂行しようと戦後ずっと左脳は働いてきた。んが、ついに範囲を遥かに越えだしたのだ。それが昨今の社会状況を反映している。左脳が次々にフリーズしだした。人生を投げるのは右脳の仕業ではない。左脳の仕業である。魔が差す、の魔とは、右脳ではなく左脳の仕業なのだ。右脳主体に生きている人間に魔はいない。だから幼児の男の子なんて純真無垢そのものなのだ。女の子は早々に左脳優位型にシフトするのでやはり大人びているし、理屈っぽかったりする。金、家、将来と煩いのも女性が圧倒的にしめる。女性は平均的に頭がいいのも基本的に左脳が発達しているからだ。あれ?右脳と左脳逆かな。右脳と左脳の働きについてはまだ一切文献を読んでないのでいい加減だが、そんなことは細事だ。まーよーはそういうことである。最近は寝ても冷めてもこのことばかり頭をよぎる。そして突然私のスタンドは出現し、私はギョっとしながらも「お、きたね」(ニヤ)と微笑返しできるまでになっている。ただ、まだスタンドは私と合体していない。気づいたらいなくなっている。溶け込んで初めて会得したと言えるだろう。それまでにはまだしばし時が必要なようだ。

これまでの思索を踏まえると、人は自分のために生きるものである。今の自分のために生きるものである。未来の自分でもましてや終わった過去でも、親や恩師のためでもない。今の自分のために生きるものだ。だから別にボランティアは偉くはない。彼らは自分のためにやっているに過ぎない。自分がそうしたら気持ちがいいからだ。そうしたくなければしなければいい。そうすると、そうせざる終えない人が自然と出てくる。そして、そうぜる終えない人だけが残る。それが本来だ。だからといってえらいわけではない。自分がそうしたいからやっているのだ。地球のためとか、エコというフレーズは大嫌いだ。地球が助けてくれと言ったわけではなく、このままでは自分たちがヤバイからそうするだけである。事実、私は昔から分別する人だったが、「たった一人がそんなことしても何の意味もないでしょ。時間の無駄」とコケにされたものである。それが今ではどうだろうか。実にいい加減なものである。

そういう意味では、自己というのは、自分と他人を傷つけることを以外はあらゆる可能性をもっている。勿論武器は決まっている。ない武器を羨んでいる余裕はない。今出来ることは今ある武器でしか出来ない。ない武器はない。ないものは考えてもしょうがない。ある武器は何か、またその武器で何が出来るかしかそこには存在しない。その武器が鈍らなのか、空気鉄砲なのかは使ってみないとわからないし、調整してみないとわからない。そこも考えても仕方がない。ある武器を使うだけである。この武器を将来こういう風に鍛えようと、左脳的に考えるのも無駄である。何故なら明日自分はいなくなっているかもしれないし挫折するかもしれない。だから今しかないのだ。今出来ること、したいことをするだけしかない。これは完全に生命の営みと同じである。そして、お金持ちになろうが、車を買おうか、家を買おうが、国を買おうが、わずか数十年で人は確実にいなくなる。そうした星のまたたきのうな生命が無限とも思える光を発し消える。この地球もそのうちなくなるだろう。それすら宇宙からしたら星のまたたきにしか過ぎない。どんな生命も瞬きである。スケールを大きくみるとその瞬きは見えないかもしれない。でもそうした瞬きが今まさにあるのかと思うと、自然とは、今とはなんと壮大な瞬きなのだろうときんじえない。


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