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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
05 / 20 Mon 21:58 ×
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09 / 02 Wed 23:44 #ドーラ ×
私は親戚と仲が良い。私は・・と書いたのは私だけだから。
他の兄弟や親はそうでもない。親は自分達の親族らとだけ仲が良い。
中でも父方の叔父さんは年に4回必ず遊びにくる。
実家でたまったストレスを発散するためと、友人がこっちに多いからだ。
この叔父さんがくるたびに、「え!!もうそんなに経つの!!(@o@;」って焦る。変化のないマイライフに強制的に変化が訪れた瞬間である。病気に格闘し電工石化のごとく時間が流れると、叔父さんはあっという間にやってくるw 自らの生活が充実していると、「あー、そういう時期か」 となるわけだが、昨年8/24にくらった地獄の苦しみからなかなか解放されなかったので、この一年は早かった。「え?この前きたばっかりじゃ・・・」と思って恐れおののくのだ。

私は誰が来ても余り気にしない。気を使わないからだ。気をつかないというのはモテナシだと思う。普通、誰か違う人がいれば気を使う。気を疲れると、使われた方はもっと気を使う。だから気を使わないようにした。叔父さんは「友人に家に泊まれよ」といわれているのにウチに来る。居心地がいいらしい。けして綺麗なわけでなはく、汚くて居心地が悪いわけでもない。それがウチだそうだ。それって気を使わないでいられるそうだ。まるで俺そのものだなー。叔父さんがいようが生活スタイルは一切かえないし、叔父さんがいようが外出していようが全くおかまいなし。食事はどうしているか?とか水は?とか一切聞かないし気にしない。大人なんだから必要であれば聞くだろうし、聞かなければ自分でどうにかするのだろうと思っている。だから帰る時も特に挨拶するために早起きしたりしない。前日に、「明日帰るから。世話になったね」 「はーい」 で終わりである。朝起きたら叔父さんはいない。寝床や部屋を掃除し、置いてったゴミを分別し、バスマット等を洗濯すれば全て終わり。

叔父さん。。歳とったなー。俺も歳とるわけだ。ああ・・・あと何回こうした会話が出きるだろうか。いつかはお別れが来るのだろうが、寂しい。自分が死ぬのは仕方がない。何もなくなるのでどうでもいいが、残されるのはとても寂しい。それを思うと辛いねぇ。「あー叔父さんとここで必ず寿司食べたよなー」とか、別宅からウチに戻ると必ず落花生かってきたよなーって思い出すのだろう。思い出というのは心の傷を癒してくれる。後何回ああして話ができるだろうか。親もそなりの年齢に来ている。いつかはお別れが来るのだろう。あー寂しいなー。寂しい。酒でも煽りたいがトドメをさしてしまうのでw

一期一会という言葉が身につまされる。今度も会えるとは限らない。次は誰しもないかもしれないのだ。寂しいなー。人はなぜ死ぬのだろうか・・・やるせないねぇ。そんな叔父さんを振り返ると、実に俺に似ている。ウチにある過去の遺物(漫画)を見て、「ドラちゃんは漫画好きなの」って昨日は聞いてきた。「昔好きだったんですよ。漫画家に憧れて漫画描いたこともありますし。結構人気あったんですよw でも、あまりにも大変で万が一にも漫画家になったら死ぬな俺、と思ってサクっと断念しました。あの漫画は夢の足跡ですよ」 と言った。そこで初めて「俺も40ぐらいまで漫画が好きでねー。白土三平の忍者武芸帖?だったかなー夢中で読んだよ」と会話が弾んだ。多分そんなこと聞いたのは俺だけだろうなぁ。んで、よくよく思い出してみると・・・血は争えないとギョっとした。叔父さん・・・よー似てるんだよ俺にwwwwww 甘いもの好きだし、独身だし、その他モロモロ・・・色々考えさせられた。いやー・・・ヤヴェーナ俺w うぷぷぷ 

まー師匠に言わせれば「似ていると同一では天と地の違いがあるよ。みな誤解している」と即断されたけど。でも確かにそうだよな。俺は俺のロードがある。さてさて、俺のロードはこれからどうなるのかねぇ。あー・・・こんな日は高橋ジョージさんのロードを歌いたい。しみるなぁ・・・・





なんでもないようなことがぁ~♪
あー・・・

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08 / 29 Sat 14:31 #ドーラ ×
いやー驚いた。
親父の若き日の写真が出てきたよ。
驚いたね。
親父の写真は結婚前のが一切なかった。
だから見たことがなかったし、本人も過去に興味がないタイプの人間だし、何よりうちの親父はギリで戦争世代なので、過去なんて振り返るどころか抹消してしまいたいほどに怒りを感じていた。過去の話は大人になるまで一切話したことはなかった。この年になりこっちも興味がわきポツポツの聞くとポツポツと語るぐらいで、自分が過去の話をするなんてことは一切なかった。
20年前迄の親父なら、写真を燃やしたかもしれない。燃やさないまでも、少なくても見ることはないし、語ることもないだろう。思い出したくないことを思い出してしまうから。人間変わるんだねぇ。

おじさんが唐突に遊びにきて1週間がたつが、
こっちにあるあばら家(謙遜ではなく事実だと思うw)を整理していたら写真が出てきた!!
昨夜帰って来たので見せてもらったが・・・

凄い!!凄い!凄い!すごーーーーい!!
写真ってすごーーーーーーーーーい!!

結婚以後の親父からの表情からは想像でも出来ないほど獅子奮迅の思いというかエネルギーというか大志に満ちた顔をしている。若いというのは当然だが、それ以上に未来への希望と意志力に満ちた顔をしている。結婚した時点では既にその希望は失せた顔をしていた。研究員だった親父はそこで圧倒的な現実の前に打ち砕かれたのは明白だった。思い出してみると、確かに1回だけそんなことを言ったことがある。
「お前わかるか、世間の連中は何もわかっていないが発見するっていうのはそんななやまさしいもんじゃないんだぞ!」
これは青色発行ダイオードを発見発明しノーベル賞をとった若田さんだっけか?のニュースの時に感嘆をもって一度だけ親父自らがいった言葉だ。後に親父は研究所の研究員だったと聞かされ驚いたものである。
何かを研究するには親父は真面目すぎる。天命にまかせるぐらいの天下太平楽の研究好がタマタマみつけられるぐらいのもんだろ思う。俺も無理だろ。真面目すぎる。真面目な人間は理詰めでいく。だから理論の構築には適しているが、一旦組み上げた理論が間違いだったと気づいた時に、頭が真っ白になって身動きがとれなくなってしまうのだ。そこで現実を受け入れるころには圧倒的な絶望感と失望感に打ちひさがれ研究をやめてしまう。それでは1000%見つからない世界・・・そう私は解釈している。

しかも写真は30年ぐらいずっと箱に収めたままだったので保存状態がよく、まるで昨日とったかのような状態だ。まるでタイムスリップして過去の親父と会話をしたかのような感動が私を包んだ。明らかに今の私より若い親父は青雲の意思のもと充実した顔で今の私に語りかけているようだった。

写真は父のだけではなく、親戚の写真もあったようで、持ち帰った数枚を見せてもらった。なんと生まれて初めて母方の曾爺さんを見た!!当時ですら92歳だかなんだか?だが、カメラを見つめる目は明治男の気骨というか気概が凄まじい迫力となって伝わってきた。その写真を見て叔父さんもその曾爺さんとの会話を一つ思い出して語ってくれた。
「曾爺さんがね、子供の俺に突然「○○お前は将来どうするつもりだ!」といった。おれは何も考えてなかったけど口から出任せで「中国を相手に商売する!日本の何倍も多い3億人もいるのなら(間違っているw)1人1円儲けても3億円になる!」と言ったんだよ。すると「○○!お前はたいしたもんだ!!」と言われて、出任せだったけど嬉しかったねぇ」
ふと叔父さんは寂しい顔をして、
「今はこんなになっちまったけどさ・・」という。
叔父さんは父や妹に写真を大量に送ったけど、自分のは持って帰らなかったようだ。なぜ?と問う私に「思い出したくないから」とのこと。何か余程のことがあったならわかるが、そうではないようだ。過去の自分の青雲に満ちた顔と今の自分の落差に受けがたい現実があるからとのことだが・・・。

そう考えるのはやるせない。
過去は過去だ。既に終わったことである。
自分の過去や現実を否定しては生物は一歩も前は進めないと思う。
現実の自分がどうあれ今の自分の肯定なくしてはいかなる幸せも満ち足りた現実も、ましてや未来もない。
世界的な発明をすることがどれほどの人生なのだろうか?と思う。
死んでしまえば皆同じである。
国土に匹敵せんばかりの豪邸に住んだからといって何が満ち足りているのだろうか。
寝るには1畳あれば充分だ。贅沢いって2畳だろう。
彼の生と我らの生になんの差があるのだろうか?恐らく何も差はない。自分の人生を通した生は自分だけのものでありそれそのものがなんであれ変えがたい経験である。だから将来もう少し技術が進めば他人の脳と記憶を覗き見れることが最大の娯楽になると思うよ。まーまだ当分無理だろうけどさ。(PSO外伝に1シーン書いたようにね)予言しておくよw まーんな大げさじゃなくて実際既に挑戦している人もおるやろうけどさw

いやーなんか感慨深いもんがあったねぇ。
結果はどうあれ、過去の自分に誇れる今があるだろうか?その時に少しでも遣り残した感があるなら今からでも遅くないから挑戦したほうが、楽しいだろうなーw 俺はわりと過去の写真と対峙して確認することが多々あったから(死にそうになった時とかね、やっぱ過去に戻るんですよ)過去の自分の顔はよーく覚えているが、この写真の親父ほど希望と力に満ちた瞳をしていたことは一度もなかったね。それがショックだった。生命力に満ち溢れているんですよ。あー俺って昔からスレた、どっか世間や自分をいつも俯瞰でみて「あーあ」言ってた人間だったなーって思ったね。自分を生き切っていないんだよな。そうだったんだって今写真を通して改めて思った。自分を俯瞰でみることはとても大切だが、それは時々でいい。常時それでは生きているとは言いがたい。

俺は割りと昔は良かったとか、将来がどうだとかそういうのは考えないほうだ。だから写真は娯楽であって過去の観賞に浸る感覚はほとんどない。既に終わったことである。だから何度か死んだな俺と思うことが続いても「まー大したことない、掃いて捨てるような人生だったけど、これはこれで悪くなったかも」と思って最後は割りと「良かった」と思えた。最初は後悔もしたもんだが、でも思い出してみるとその当時は当時で必死にやった結果だったんだよね。だから最後には「よーやったやん」って思えた。だからこれからどうなろうと「良かった」と思って死ねると思う。故にオヤからすれば「無欲にもほどがある!!」とか「志が低いにもほどがある!!」とか「何を悟りを開いたようなこと言ってるの!!」って言われてしまうわけだがw それは俺なりに何度となく「俺・・死んだかもしれんな」と思うことがあり、自分なりに誰に言うこともなく戦った結果に得た精神性であり、ポッと出た思いでも小説や映画、誰かの発言の受け売りでもない。そりゃー俺だって当初は「このまま終わってたまるかー!」と布団の上で数ヶ月ももだえ苦しんだが、3ヶ月も戦うとね、圧倒的な現実に対して「まーしゃーねーなw」って思わざる終えないのよ。でないと救いがないんですw 苦悶しながら死にたくはなかったので、やはり究極的には「是」しかないんですよ。現状の全ての自分を肯定する。その上で今この1歩を歩むしかね。このままのたれ死んでも1つの死でしかないんですよ。今を生きる生命にとって、それは1秒1秒、瞬間瞬間のココの闘争であり、既に失われた生に思いを馳せている場合でない。今とは生きているモノのためのステージであり、死したもののステージではない。だから、多分あの世はありそうな気がするんだけどね。師匠に起きている出来ことにかんしてもあの世ってやっぱりありそうだなーと思わざる終えないことが随分起きている。ただ、それですら自分の都合のいいようには起きないけどさ。

どんな大富豪であれ、名も知れぬ浮浪者であろうと1つの人生であるこに何の差もないし、100年もすれば、もっと言えば200年もすれば確実に誰も覚えていないのも間違いない。つまり何の差もない。何の価値の差もない。更に言えば200年たっても、1000年たっても誰かが覚えているような作品を書いた人達がいるけど、それが果たして本人とって幸せなのかなんて誰もいえない。何故ならとっくにその人は別なステージにいるわけで、今というステージは今生きている人だけのものだからねぇ。むしろ「いい加減そっとしといてよ」って人もいると思うんだよね。

いやー・・・生きているって凄いねー!!そう思わない!?
そしてなんて贅沢なんだと。この配役をどう演じるか、生きるかってのは自分次第なんだから。監督からはなんの指示も聞こえてこないわけだからねぇ。贅沢だねぇ~。その贅沢なときを、演出を俺は「仕事もないくせに日がな一日モンハンFを遊び続けるだけの男」って設定、凄くない?wwww ちょwwwww そんなキャラ理性では配置でけんよwwwww 俺が原作者ならそう思うね。コイツ何の意味があるんだwwwwww みたいなwwww でもね、着実に息づいているんですよ。生きているんですよ・・・。そしてこれが何かの物語なら、観客は主人公やヒロインに心奪われながらもこうしたキャラに愛着をおぼえるんですよ。彼はどうしたんだろう?このままじゃ彼は路上生活者になっちゃうんじゃないの?彼はそれを理解しているのに何で何もしないの?出来ないの?いや、出きることはあるはずだ?!そうだ、きっとある!ってね。脇役が美味しいって言われるわけがそこにあるんだよねぇw 

さー俺の人生は今後どのように展開されるんだー!?
それは俺にすらわからない。
今まさに生きているということだけ。

今日は久しぶりの猛暑日で室温が35.5度になり、湿度が58%あり、湿度が60%超えてない分まだ過ごしやすいけど、何のやる気もわかないってことだけwwwwwwww そして既に14時を過ぎているのに飯食ってないってだけwwwwwww これから風呂はいって飯くったら・・・・夜だよwwwwwwwwww うぷぷぷぷぷぷ これってさー実は凄い面白くねぇ?w これだけで小説かけそうだな。「何が面白いんだよコイツ!!生きてて何が楽しいの!!あんたさー!!がんばりなさないよ少しは!!」って怒りながらもどうなるか読まざる終えないみたいな。んで、いかにも落ちなら、彼はその後その写真をキッカケにがんばりそれなりの成果を残し家族に看取られ充実した生を営んだとさ。ってなるよねw そういかないのが現実なんだよ!!だから凄い。やっぱ生きているってのは凄いね。人間の想像力を超える。

いやーでも、
久しぶりに写真みてビビビッってきたなー。
感動した。心から感動した。
俺の人生にはあんな輝いた顔をした日はなかった。気づけば病との闘いだかったからなぁ。必ずなんかあった。かさったことも少なくないし。
あんな輝いた顔してみたいなー。それは単純に思った。
あんな輝いた顔した瞬間が1つでも多い人生っていいなー。
結果はどうあれね。結果なんて奇跡みたいなもんだよ。たまたまだよ。神の祝福といってもいい。人間の努力なんて基本クシャミで飛んでいくみたいなもんだから。過去の成功者の本でもつくづく思った。努力が結果に報われるパータンが実に少ないか。結果的に努力は皆それぞれしているんだと思う。見えないかたちでさ。見える形の努力なんてたかが知れている。努力というラインをこえないとね。到底無理っす。

俺が輝くにはもう一声身体がついてこんとなー。
やっぱ輝くには身体は大事だよ。
もう少しだよ、もう少し。

・・・風呂はいろw

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07 / 20 Mon 15:05 #ドーラ ×
現代の大人の軟弱さには憤りすら感じる。
いや、うちらの親の世代にすらそうだ。
ここまで社会をダメにしたのは自分達でありながらまるで他人のフリだ。
子供がちょっと右往左往すればギャーギャーと大騒ぎ。
芯の通った大人と言える人はジーちゃんやバーちゃんにまで遡らないといない有様だ。
恥を知れといいたい。
言葉の呑み、世界を広く見通した上で考え行動できる大人なんてここ40年おらんちゃうか?

私の理想とする大人はハリーポッターのダンブルドア校長だ。
もーハーマイオニーとかポッターとかなぞ校長の魅力に比べたら屁みたいなものだ。
横道にそれると、あの物語は人物の魅力配分が実に素晴らしい。
秘密の部屋まではクソ映画だなーと思っていたが、アズカバンから飛躍的に面白くなった。

ダンブルドアのシーンばかり繰り替えしみちゃう。
全体をみながらもポッターのためを思い、黙して語らず、それでいて「わしのせいじゃ・・」と全てを引き取る潔さ。高潔さ。それでい愚痴らないし悲観もしない。折れることも無く、泣き叫ぶことも無く、困ることもなく、次々と変転する事態に対して実に柔軟に対応する。

「わしが素直に連行されるとおもうたか?」
と言って、サクっと不死鳥とともに消え去るシーンなんて最高にカッコよすぎる。
その時に、ニヤっとしたなら若造だが、ニヤリともせず当然のごとく颯爽と消え去る。
カッコイイイイイイイイイイイイ!!
ダンブルドアに抱かれてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!
いかんいかんw それじゃ単なる変態だ。
あれぞ大人、あれぞ理想である。
あの映画には大人の完成形が色々出演する珍しい映画だ。
あのパー子も一つの悪い完成形だ。実際にいるんだよアノ手の大人・・・ガッペムカツクw
セブルスの一つの形だし、マクゴナガル先生もそう。皆大人だなーと思える人たちである。
シリウスのダンブルドアほどは大観しきれていない感じも大人である。
不死鳥の騎士団でのダンブルドアは理想中の理想である。
あれぞ大人の愛である。
大人はあれが理想だ。
ああいう大人に見守れた子供は幸せである。

今の世の中が歪んでいるのは取りも直さず我々の親世代の責任だ。
しかしそれも我々の時代になりつつある。今度は我々が世界を築く番だ。
ダンブルドア校長は空想の住人だが、私の爺ちゃんがああいう凛々しいジーちゃんだった。
今思い出しても胸が熱くなる。
ああいう人になれれば世界は間違いなく良くなる。
不遜の親どものツケ払わされる形となるがそれもまた生命の連鎖のなか仕方がないだろう。
ああダンブルドアみたいな大人に今一度会いたい。

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07 / 15 Wed 12:07 #ドーラ ×
ネットやって時々質問されるのがこの「むふーw」だ。
私は直感的にゲームで使う掛け声を決めている。ジュゲの時は「ラリホー♪」とか「おっしゃー!」とか「しゃーらー!」とかね。その後「ひゃっはー!」とか「ひゃーふー!」とか色々ね。意味はなくはないが基本的にはなんとなく。一旦きめると使い続ける。甘美では「ひゃっはー!」を連発していた。

んで、意味がわからないと聞かれるわけだw これを説明させるのか?wと思ってしまう。何せこれを説明するのは芸人が落ちを説明するようなものだ。雰囲気で察してもらいたいものだ。わからない場合はわからないままにしておけばいいのに直球で説明を要求される。スルーするけどね。説明するようなもんじゃない。中でも一番聞かれるのが「むふーw」 だ。「それ、どういう意味?」って先日も新しくなったフレに聞かれた。どうもこうもないのだが・・・。雰囲気で勝手に解釈してもらっていいものだ。なんとも言いがたい気持ちを一言で表現しようとした時にリアルタイム性を要求するネットだからこそ使っている。即応性が要求されるとかえって省略され言葉が少なくなるというのはいかにも日本人的だなーと我ながら思う。

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07 / 14 Tue 14:00 #ドーラ ×
ネットフレが友人になるのは大きな隔たりがある。
特に日本人はそうだ。
アメリカ人は友人とネットフレの関係は似ている。どっちも距離がある。
某アメリカ人の知人と話していた時、「やっぱり」と思ったのだが、アメリカ人はあけっぴろげで礼儀正しいが、実際心の距離は日本人以上にシビヤだと聞いた。ストライクゾーン自体は限りなく針の穴のように狭く、逆にそれ以外のゾーンが凄く広い。そのためアメリカ人はネットで出来た友人といとも簡単に会おうとし、故に犯罪に巻き込まれる件数が日本と違って桁違いに多い。日本人はほとんどの人が慎重なので余程隙あらばヤリタイ気満々な人意外は早々は会わない。社交的になったといわれる今でも実際のところ本質的には変わっていない。まー民族性なので当然である。
これは人間の力学でも古くから語られていることで、信頼ゾーンが狭い人ほとそこそこのゾーンは広く、でも本音では信頼していないゾーンも広い。信頼しているゾーンが広いひとほど、信頼しない人のゾーンは狭いのだ。アメリカ人がフレンドリーなのは自分の身を守るためである。挨拶を交わすことで、何かしらトラブルがあった時にその人に助けを呼びやすくなる。安全な社会ではその必要がない。危険の意味を骨身にしみて血で理解しているので本能的防衛行動である。いい、悪い、ではなく社会性であり民族性の結果なのだろう。これはシチュエーションコメディを見てても如実に現れている。

今の日本は非常に中途半端になってきた。信頼ゾーンがフラフラ揺らいでいる。異常に根拠なく信頼ゾーンが広い危険な人と、逆で同様に信頼ゾーンが根拠なく狭い人がいる。これは精神学的には精神不安定を意味する。本来は成長の過程で確たるものが形作られるのだが、それが形成しきらずに大きくなるのだ。ネットゲームやってるとそれをよく考えさせられる。人の付き合いの距離感をもてないのだ。ドップリつかるとストーカーに近くなり、逆にドライになると超攻撃的になる。間がないのだ。まさに日本の民族性とアメリカ型社会性の間に揺れてポジションを自然にとれなくなっている。やたら積極的かと思えば、逆に閉塞的になったりとやっぱり間がない。どっちにいっていいかわからない感じだ。まさに戦後を形成してきた親たちの責任だ。民族としては日本なのだから、社会も日本をベースにすべきだったのをアメリカ型にせっせと変えてきた不具合が起きているのだ。大いに反省してもらいたい。

モンハンのネットフレにも1人いる。悪い子じゃないので基本そっとしている。「クエやろー!」言われて時間なければ「ごめー!時間ないからー」といい、時間あったり気がのったらやるって感じだ。困るのはどうしたいのかわからない会話が続く時だ。私はあえてそっとする。「遊びたい」ならそういえばいいし、「挨拶」なら挨拶で終えればいい。何が問題かというと、距離を意図的に計りすぎるのだ。それが露骨である。KYという言葉が流行ったが、あんなものはクソみたいなものだ。今の若人や大人は空気を読もうとしすぎる。私にみたいに本能で読まなくても読めてしまう人は仕方ないのだ。能力みたいなもので、読んでいるつもりはない。無意識だ。読めない人は読めないままでいい。読めない人が読もうとすると余計にややこしい自体に陥る。うちの親戚には一切読めない、一切読もうとしない人が何人かいる。それを別な親戚は非難したりするが大きな間違い。読めない人が読まなければ「ああいう人だから」でシンプルに終わるのに、読めないのに読もうと努力するとメッサワワになり余計に混乱する。今の若人は空気を読む前に自分の気持ちを読むのが先だと思う。自分の本音がどこにあるのか? 周囲はやけに盛り上がっているが、俺のどうなんだ?「さめてるなぁ」てーことはどうでもいいのか。これを素直にやると総スカンされることもあるが、通せば認められる。私はそうしてきた。社会人になってもママゴトのようなことをしている同期に嫌気がさし、私は自分がしたいようにした。上司に呼び出され「仲良くしろ!」と言われた時は、「あーこの会社クソだなー。こんな先輩が指導員なのか」と呆れたものだ。何せ自分は挨拶もするし、会話もする。仕事もスケジュール通りこなすし連絡も滞りなくやる。その上でコレなのだ。

単に連中とは気があわないだけ。性格の不一致だ。俺は俺であると同時に、彼らも彼らである。互いの自由を尊重した結果、飲み会には参加しないし、昼も勝手に行動する。ただそれだけだった。それでハブにされたこともあったが、「関係ないね」と思っていた。ママゴトはいつか終わりがくる。祭りはいずれ終わる。結局ママゴトをしていた連中はチリジリになった。そこでは初めて本音が出るのだ。やれやれなんという無駄だろうか。

師匠にもよく言われるが他人なんてどうでもいいのだ。このどうでもいいという意味をほとんどの人は誤解している。天上天下唯我独尊を誤解しているというのと同じだ。その本質にあるのは、自分の声に心から耳を澄まし、自分の人生を大切にする人は結果的に他人の心の声に耳を澄まし、他人の人生を尊重できる。空気なんて読む必要はないのだ。そんなことより前に自分はどうなのか、どうしたいのか、どうしているのか、その先にとラブルがおきたらそこからまた、どうしたいのか、どうするのか行動に移せばいい。空気ばかり読んでいると心の空っぽな人になってしまう。いつも頭の中で計算し、一人相撲の果てに、崩壊する。なに一つ幸がない。書でもそうだ。見えていることは最初であって、書けることは次である。見えていないの書けないのは当然である。下手な人ほど見えていない。技術以前の問題なのだ。

そういうこと考えても今の若人ばかりか大人も空気ばかり読もうとする。しかも性格的に性質的に無意識に把握できるような人なら仕方が無いが、意識して読もうとしている。私みたいな無意識にアンテナがある人間は一瞬で見抜いてしまうので興ざめだ。そういう人の傍にいると尻がムズムズする。「我が心ここになしか・・」
と空しくなってしまう。そんな人と会話をしても虚しくなるばかりである。

友人には心を置いているが、ネットフレには心を置いていない。置いてないというより置けないのだ。何も知らないのだから。祭りで会った人は覚えていないのが普通だ。そこで意気投合して寝たとしても忘れ去る。それが自然だ。ただ、ネットでしか会っていなくても友人と言えるほど心を置ける人もいる。しかしそれはそれなりに心の交流があったればこそであり、うわべだけの会話をいくら無限のごとく繰り返していてもそうはなからなかったと思う。あらゆるサイトでやたら意味もなくフレンド申請する人がかなりいるが私は許可も拒否もしない。その意味は無視ではない。ネットフレの段階にすすむ可能性はある。しかしそれは今ではない。だからそのままにしておく。これは心を置いているからだ。ネットフレが何万人いようと虚しさに代わりは無い。それを自覚した時の恐ろしさは想像を絶するだろう。それならフィギュアを並べて話しかけていた方が健全に思える。

友人から親友への道は更に遠い。友人の数を自慢する人もいるが、その虚しさときたらない。本当の友人ならそう多くは無いはずだ。親友なら尚更である。片手で数えられる程度が限界だろう。なぜなら人間の脳には物理的なキャパシティーがある。個性があるのでキャパシティーの広い人もいるがそれでもそう多くは無いだろう。天才を除いてこころの許容量も概ね決まっている。そこに妄想の入り込む余地はないのだ。家族を異常に大切にする人は尚更友人は少なくて当然だ。心のキャパシティーに家族が占めすぎているからだ。大量にフレといえる人が多ければ1人1人との関係性は非常に希薄だろう。逆に大して相手のことを知りもしないのに深入りするのは根拠がない。「どうして自分はあの人にこだわるのだろう」と自分を探ってみるといいかもしれない。すると単に溜まっているだけか、とか今凄く孤独を感じていてあの人なら聞いてくれそうだと思っている自分に気づくかもしれない。いずれにせよ、答えは自分の心の中にしかない。空気を読む前に自分を読めむことだ。自分を大切にする人は、他人をも大切する。それは極めて理論的であり、自然率にかなった行為なのだ。

人間というのは極めて物理的でリアリティな存在なのだ。心や精神といわれるものも大半は物理的なもので占められている。そこに妄想の挟む余地はない。フレに悩んでいる人は相手がどうのと考える前に自分に心を置くといいと思う。鬱陶しいと思うのならオンラインしないという手もある。それで済むならそれほど遊びたいわけでもないのだろう。それでも遊びたいのなら相手に素直に言ってもいい。「鬱陶しい」というのではなく、「ごめんねー、今は他のフレンド遊ぶのが楽しくて」でもいいし。自分の心を読み、自分に言うつもりで語りかければそうそうトラブルなんて起きないものだ。

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06 / 23 Tue 20:55 #ドーラ ×
私が個人的に気に入り密かに応援していたモンハンの絵日記を書く方が、
モンハン公式の漫画集で何本か描く事になったようだ!!
彼の貧乏話は私の非のではなく、ギリギリマスターの称号がさんぜんと輝く!
やっぱり人間諦めたらあかん!投げたらあかん!焦ったらあかん!

しかし!今回ばかりは、全滞納で帰郷5秒前だった。
彼も今回ばかりはもうだめだと思ったようで、終了宣言までする。
私も肩をおとし、彼の過去に書いた漫画画像を全て拾いにいったぐらいだ。
んが、友人達の援助によりギリギリマスター!!

そしてその後にこの依頼が・・・
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

晴れて公式漫画を描いた一人だ。まーそれなりに数はいようが彼の漫画は独特の味がある。
あれはその人の生き方そのもの人生観そのもので他の人では真似できようがない味だ。
誰が売り込んだのか?どこに売り込まれたのか詳しくはわからないが、こういう人は積極的に採用すべきだろう。運びあったのだろう。

彼の才能は今あちこちで作為的に生み出されている量産型ツンデレタレントとは次元が違うのだ。
本性のものだ。貴重な人材だと思う。他のモンハン漫画をチラ見したことがあるが全然おもろなければ味もなかった。唯一である。彼のモンハン漫画が増えれるといいなーw 彼は本業でプリーズ!といっているが、恐らくそっちの才能はないような気がする。いちを元その世界にいたので雰囲気ある程度の察しが・・・直感でごめんw とりあえず3冊ぐらい買おうと思う。まーギャラは固定だと思うので1冊でも3冊でも変わんないだろうけどね。アンケートがあったら、「彼の漫画が読みたくて」と書いておこう。

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06 / 13 Sat 18:24 #ドーラ ×
うちの師匠は物事や人の本質本性を見抜く達人である。
その師匠に言わせると私は水のような人間らしい。
しばしとどまれば腐ってしまう。
流れ続けてこそ発揮できる人間らしい。
「自在であること」それが私を磨く最大のキーワードであるそうだ。
これはドキっとさせられた。

しかし自然界とは不思議なもので、
自在さをもって能力を発揮するはずの私は、肉体は脆弱で、自在さを駆使すると途端に水が枯れてしまう。
しかも自ら自在さを好まない精神的構造傾向があるというオマケつきだ。
つまり、
私の資質を真に活かし死して悔いの無い生き方をするには、
大きな弊害が2つも自分の中にある。しかも、その弊害はこれまた同時に本質的なものだ。根っこから生える木みたいなものだ。

水が枯れるとは死を意味する。
自在さを望みながらそれを好まないのは生来の気性のようなものだ。
それはまさに泥舟に乗る、狸船長のようなものだ。
私はカチカチ山を始めて読んだ時は衝撃を受けた。
沈んだ狸がどうしても忘れられなかった。
狸を助けたかった。
それを思うと悔しくて涙すら出た。
書いた人間を恨んだ。

狸はいう。
「沈まなければいい船なのになー」

でも、沈んでしまっては元もこもない。
しかし船はいずれかのちに、必ず沈む。もしくは目的地へ着き陸に上げられ役目を終える。
今の私は沈みかかった泥船を必死にこいでこいで、
どこか知らない小さな島に漂流し、辛うじて陸に上がっている状況だろうか。
狸が汗をかきながら横たわっている。

「ここはどこなんだよー」

とか言ってる。しかもこのまま陸で終えたくはない。
船は海に浮かべ、大陸へ行くものだ。
半ば座礁に近い状況でたどり着いた私の船は現在出港すらしていない。

しかし、この相反する状況下でどうやるかってのが、ある意味の自由なのだろ。
ここを解決しなければ同じことだ。泥舟である現実は変わらないが、泥舟で渡るしかない。
誰だって常にある種の状況の下で生きているわけだから、どうなろうと自在さを得られれば自由になれる。
そもそも、狸の船の目的地はどこだったのか?
今はそれすらも思い出せない。船を修復させるので手一杯でそれすらも忘れかけている。
ただ、これだけはわかっている。
沈むことになろうと、出航は迫っている。
そう遠くないだろう。そして、それまでに準備は必要だ。
丸裸のまま出航しては生きて大地は踏めないだろう。

狸船長は昼ねしながらそんなことに思いを巡らせる。

陸にいた時間が長すぎて何が必要なのかもわからなくなってきた。
そもそもどこへ行きたいのか。
更に出航したとして、狸はオールをこぎ続けられるのか。
狸が死んでしまえば、結局船はいずれ沈む。船だけ漂着しても何の意味もない。
(2次的な意味は生むが、それは本人には関係がない)

このまま名も知らぬ陸地で一生を終えてもいいと・・思えてくる自分に危機感を感じる。
それだけに狸は満身創痍だった。長すぎたあまりにも。
しかし泥舟をなんの打開策もなく海に浮かべるのが自殺行為であるの、
狸のゴーストが許さない。
狸と船双方の解決なくして陸へ着かない。
目的地は漕ぎながら考えてもいいが、時間が足りない可能性もでてきた。

生きている人皆それぞれ同じような問題を抱えているだろう。
条件はそれぞれ異なるのだが、ある意味では同じだ。
気づかない人は幸せとも言えるが、
気づいてよかったとも言える。
どっちにしろ後戻りは出来ない。

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04 / 26 Sun 16:12 #ドーラ ×
私は周期的に第六感が異常に冴える年がある。
直感的にわかっちゃう。去年ぐらいから冴えだし今年も冴えていると年初に思った。

今回の抽選会でも発揮。
しかし、世の中そんあに甘くはないw
わかっていてもどういようもないということが世の中には五万とある。

参加団体は4組。驚いた、久々に多い。
ここ3年ぐらい2組ぐらいしいなかった。

1/4の確率だが、見た瞬間にどれが1番か、当たりどれかわかった。
こういう時はまー外さない。考えたら答えから遠ざかる。
しかし、
隣の人が抽選順位一番を引くなと思った。
やっぱり1番だった。
次にドレが当たりかわかったが、1番の人が当たりを引くと予見した。
つまり今回はハズレか。
そう思い、封をあけずしてそそくさと帰る準備をする。
隣の人が当たった事を宣告。
やっぱりw
私だけ封をあけることもなく担当者に挨拶だけしてその場を後にした。
このようにして、わかっていてもどうしようもないことは往々にしてある。

逆に当たる時は結果を見る前にわかることもある。
「あ、今回あたり引くな」と浮かんだ時はまず当たりを引く。
だから特に驚かない。
浮かばない時は周期から外れているときで全く浮かばない。
霊感だとは思わない。
霊感というより第六感と受け止めている。
子供の頃からそうだった。
ミワさんじゃないが、恐ろしくなり「こんなのいらない!」と強く念じていたら全く何も感じなくなった。
大人になり、「あっても損はしないか」と頭が切り替わると、またわかるようなった。
ただし強い弱いに波があり、先も書いたように全く浮かばない時は浮かばないし。
驚くほど悪い選択ばかりするぐらい地雷を踏む年もある。
どっちみち・・・大したモンじゃねーなw

帰りに見知らぬ団体から声をかけられる。
なんか会話とは異なる意図を感じた。なんなんだろう。
さっきの抽選会にはいなかった団体なのに何故かやけに慰められた。
「恒例行事ですから」
とサラっと行って後にする。
いちいち当たり外れで一喜一憂する暇もない。
どのみち当たるまでやるだけだ。
いつ巡ってくるかはお天道様だけが知る。
人間の範疇にはない。

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04 / 25 Sat 10:56 #ドーラ ×
いきてーることがぁ、辛いーならー嫌になるまでー♪
ナオタロウの発禁歌ですな。
最初CMで聞いた時は、わかわかんねーな詩だ と思ったけど。
あそこだけ引っこ抜いたら余計わかんねー歌だな。
エエ歌や・・・。染みるぜ・・

昨夜仕事の顔出しに行ったが、
数年前ちょっと心を患った元同僚が顔を出してくれた。
心痛余りある経過からの復帰なのでそれだけでも泣きそうだった。
一目見て大分よくなったとわかる。
でも本質的にはまだ解決されていない感じだ。まー他人がどうこういう問題でない。
さぞや辛かったろうと思うと、言葉もない。
彼はポジティブシンキングという言葉を口にした。
私は好きな言葉ではない。
私の師匠に言わせると、そういう発想そのものが人を追い詰める。
あるがままをとらえればいいと言う。私はその通りだと思う。
妄想して暗くなることはばかげているが、妄想して明るくとらえるのも何か違うと思う。
今わかることは今の自分がどうか、ということだけ。
「今の俺は、私はこうだな」 それを把握するだけで充分だ。
良いも悪いもない。

なんにしてもよー頑張ったと思う。
奢らず、高ぶらず、焦らず、歩んでもらいたい。
よくも悪くも人は身の丈でしか生きられないのだから。
ガンバル必要なんて何もない。
やりたければヤレばいい。
やりたくなければヤラナケレバいい。
その人生の差なんて、大差なんてない。
人類の歴史じたいが、ほんの一瞬の瞬きですらないのに、一人の人生なんてねぇ。
そういうと、うちの親なんて、達観しすぎとか、人生を投げている的なことを言ってガナル。
「あーこの歳になってもわかんねー人はわかんねーんだなー」と思ってしまう。
ジェネレーションのなせる技だろう。達観はしてないし、当然ながら投げてもいない。
それがわかんねーんだなー。感受性の減退だよ。

周囲は皆、彼はもう戻ってこないと早々に断言していた。
腫れ物に触るように会話をし、年賀状も出さなくなったと言う。
皆が彼に年賀状を出すのを差し控えるなか、私はズカズカと送り、自分のことだけを書いた。
私は、彼は戻ってくると思っていたし、戻ってきて欲しいと思っていた。
だから腫れ物に触るような態度で接することはしなかった。
性急な答えだけは出してくれるなとだけ念じていた。
性急な判断は大局的にみて誤った決断を下すことが往々にしてある。
それさえなければ大丈夫だ。彼は戻ってくる。その考えに揺らぎはなかった。
そしてそうなった。

彼は元々多感なタイプなので、いずれわかると思っていた。
彼がああなる前、
「見ている人は見ているんだよ」という私に、彼は激して
「ダレもみちゃーいないですよ!」と反論し、その後ああなった。
自分すら支えられないで回りが見える筈がないので、その話題はそのまま流した。
いずれ判る。彼はわかる人。わかる人がああなるのは自分を支えられなくなっているほど追い詰められているということ。

彼は2年前と何も変わっていなかった。
あの頃と同じようなテンションだった。
根本的な解決には少し時間がかかるような気がしたが、彼は少し開き直れたようで安心した。
いい意味での開き直りは大切だ。諦めとは違う。根が真面目なのだ。俺と同じでw
よく戻っていたなーと泣きそうだったが、それは相手に失礼なので何時もと変わらない口調で喋って別れた。
お前の踏ん張りしかと見せてもらったぞ!!私の心の栄養にさせてもらった、ありがとう。また会おうぞ。

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04 / 20 Mon 20:32 #ドーラ ×
わからないものはわからないままにしておいたほうが上手くいくことのほうが多い。
これは師匠のお言葉ですが、まさにそういうことって案外多いですね。
先日、師匠とプロダクションの方の会話を聞き、まさにこの通りの会話がなされていました。
なんていうか話題の本質的な目線が違う。到達目標が完全にズレている。
それなのに話は互いに通じており、互いに合点がいっている。
そして、結果的に表面上の仕事の成果は共有化しているという、まるで奇妙な会話でした。

私は「相手が理解していないな」と思うとそれを是正しようと努力しちゃうのですが、
相手が理解する頃にはこっちがウンザリしちゃっていたり、理解させたばっかりに返って話がややこしくなることが過去に数え切れないほどありました。理解していないことがわかっているのに、そのまま話を進める気にはならないタイプなんですね。だって結局は巻き戻るんですから。そう思っていままで相手が気がつくよりも早く先回りして導こうととしていたのですが、この歳になって「なるほど、知らないほうが、気づかせないほうがうまくことが運ぶことの方が多い」と感じるのです。

見ている先が違うのに表面上は成り立つ。
実に面白いね。
ただ、確実に到達点は違うのですよ。
知らぬが仏とはこのことかなー。

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