なるほど1期を見なおしてみてこの物語の構造におけるポイントに気づいたので自らへの反省を踏まえ書いておきたい。
・必要な情報を提供せず後からネタ明かしをする。
この視点がもたらすもの。
>読者を驚かせることにだけ作り手の焦点が絞られている
>物語が構造的になりダイナミックさに欠け、本当の意味での意外性すらなくなる
>そもそも驚かせる必要がない
>視聴率のように瞬間風速だけを売り手は求めている
>そもそも永く愛されるようなものを作る気がない
>読者を結果的に馬鹿にしている
>読者の時間を無為に浪費させている
そんなところだろう。
これはこのライトノベルに限らず、映画にもよく見られる傾向だ。
これが映画やドラマ、小説を本質的につまらなくさせているのだが手法として定着してしまっている。
この動機にはとどのつまり以下のポイントに集約されている。
・瞬間風速的に売れればいい。永く売れれば儲けもの。
それとは別に、このアニメに関して言えば、
・表情や演出による情報の圧倒的不足
以上が上げられる。
よくよく何度も見返してみると人気のあるキャラクターの 表情 のみある程度描かれ、回りの表情は静止画で済まされている。それは予算の都合で理解できるのだが、静止画の表情がそもそも適正ではない。そこが問題である。人は生物学において対象そのものより周辺の情報、反応から検証、精査を行なうため、対象周辺部の情報が不適切だと適正な判断を下せず、正しく読み取れるものほど混乱する。私が感じて違和感はまさにそれだった。
この件は、意図的に描いていないのなら 演出 となり問題ないのだが、明らかに単なる手抜きであり、ともすれば手抜き以前の問題として、「表情を描き分けるスキルがない」 いやもっと問題なのは 「そもそもその表情がわからない」 という点でを危惧する。これは宮崎駿監督がドキュメント番組で危惧していたことそのもので、最近のアニメターは若い頃に十分な行動を通していないので動きや表情が素で理解できなくなっているといった趣旨の発言が思い当たる。
これはアニメという性質上決定的な問題である。人が演じていれば下手でも多少なりとも無意識に補完されるのだが、アニメはそれを意識して描いて伝えなければならない。
この作品に関しても、主人公の表情が心情と完全に乖離していることがしばしばあり、見ていて非常に違和感に感じていた。見流している時はいいのだが、ある程度ちゃんと読み取ろうとするほどに違和感しか生み出さない。これは伝える側のミスである。これが意図だとしたらやはり受容者を小馬鹿にしていると言わざるおえない。意図とうっかり出てしまった双方が恐らくあるのではなかろうか?
・そもそも衝撃の展開など求めていない
真剣に読んでいる側、見ている側はそもそも 衝撃的な展開 など求めてはいないのではなかろうか。
衝撃的な展開に感じる場合や、意外性は結果的に得られるものであって積極的に提供するものではない。
ミステリーにおいては重要なファクターであるので例外とも言えるが、
こと本質においては求めいないと思う。
・ショックを求めるのは興味本位の外野だけではなかろうか。
大切に読んでいる側は 面白い ことが重要なので ショック や 意外性 など求めていない。
マスコミにありがちな、ショックな事象を表題にもっていくの安易だが効果的な方法である。
ショックを演出する為に理不尽なことをされると受容者側は不用意なストレスに晒されるだけになる。
本来そうした仕掛けは重要な中身を読ませる為の手法であったに思う、
目を引いた挙句に中身がなければ完全な本末転倒であるが、現在はそこに陥っている。
ショックの為のショックとか最後は空っぽの無限マトリョーシカだ。
・ネタ明かしを最後するズルさ
物語や登場人物の関係性を理解をする為に必要な情報が基本的に前もってもしくは平行して提供する必要が提供側にある。提供されない情報は無視しても差し障りの無いものであるべきだ。
後から手品的にネタ明かしをしたり、重要な情報を出さず後からネタばらしするのは単に受容者を小馬鹿にする行為に思える。理解出来なくて当然であるからだ。ところがこうした作品は多いように感じる。この手の作品は冒頭の設定とラストさえ読めば間を読まず完結していしまう。これは手法としては理解できる。
・「結局この物語の結論は何?」という視点をズラすためにあるように思う。
特に視聴者や読者にこの最近はこの傾向が強い気がしていた。「結論」、この物語で言えば「誰とくっつくの?」という点にばかり焦点があってしまい、物語の最中に繰り広げられる大切なやり取り(作者はそうしたポイントも大事にしているので)が全てスルーされてしまう。読んでいる筈なのに、見ている筈なのに、 「どういうこと!?わけわかんね」 と問いただす受容者は実に多いよう。
「いやいやいや、前の話で描いていたでしょ?」
とわかっている人からすれば「何いってんの?」となるが、そうした場合に前の部分を読みなおそうとしないようだ。仮に読みなおしてネタが割れると、それを誇らしげに公然とバラシテしまう。個人のブログでなら私は構わないと思うのだが、多くの人達が見ているニコ動のような場でも平気でバラす。これは作者がけして望まないことだろう。その結果、必要な情報を開示しないことに提供側は神経質になる。本来結論はオマケみたいなもので、真面目に読んでいる読者が結論を先に気付くは当然のことである。逆にそこがバレて物語が面白くなるなるのなら大した中身もないということになってしまう。情報提供者側は売上の関係で無理もない側面があるが、それの意図が作品の自在さを失わせるような事態にまで今はなっているように思う。それが意図的な情報の隠蔽に含まれていると感じた。
重要な情報が隠蔽されれば先の展開が読めないのは当然であり、「ほーらーざまー予想外だったろw」 と製作者側に暗に思われているとしたら、これが小馬鹿にされていないで何なのだろうかと思う。この作品に関しては 登場人物に思い入れがあり過ぎて反社会的な行為に出た読者が逮捕された経緯があるようだが、それを作者および製作者側は良い重しとして捉えているだろうか? 勿論、彼が償わなければいけない。ただショックやインパクトを演出せんが為に、登場人物を意のままに翻弄し、読者を翻弄し、それで「やったった」みたいな感覚でいるとしたらこれが悪徳でなくてなんなのだろう。でも、そうしたものを感じる。
・登場人物の未来を軽く考えている
命を吹き込んだのなら、登場人物の運命もしっかり見据えて欲しいものだ。勿論、全ての登場人物が幸せになる未来というは極めて不自然だ。リアルがそうでないように。しかし、そうならざるおえないものを登場人物が行動として起こしていたら、受容者は受け入れざるおえない。登場人物の痛みを受けそれでも尚幸あらんことを願うだろう。脅迫はもってのほかだ。そんなことをするぐらいなら、その思いの丈を二次創作で展開し、幸せな未来を自ら書き上げ、「どや!!こういう未来も書きようがあったんやど!!俺の○○たんに謝れw」と作者にたたきつけたやった方がなんぼフラストレーションも解消されるだろうし、自分の能力を開花させることにもなるし、作者も嬉しいだろうに思うのだが。ただ、最近の作者は登場人物の運命を軽く考えすぎている気がする。「所詮、ライトノベルだからw」とか「創作だからw」とか安易に考えているように思う。
愛がないのだ。MHFのモンスターをデザインした人が、「ハンターが倒されると!やったった!」と思い、逆に倒されると、「あー・・・今度はもっと強く設計してあげるからね・・・」と悲しい思いをするような趣旨のインタビューを読んだことがある。これが愛情だと思う。そうしたものが欠けている気がする。
創作物は自らの分身である。その分身を蔑ろにするということは自らを蔑ろにしていることであり、そんなものを提供しているといことにもなる。双方とって何のとくもない。そんなことを思い当たった。
・必要な情報を提供せず後からネタ明かしをする。
この視点がもたらすもの。
>読者を驚かせることにだけ作り手の焦点が絞られている
>物語が構造的になりダイナミックさに欠け、本当の意味での意外性すらなくなる
>そもそも驚かせる必要がない
>視聴率のように瞬間風速だけを売り手は求めている
>そもそも永く愛されるようなものを作る気がない
>読者を結果的に馬鹿にしている
>読者の時間を無為に浪費させている
そんなところだろう。
これはこのライトノベルに限らず、映画にもよく見られる傾向だ。
これが映画やドラマ、小説を本質的につまらなくさせているのだが手法として定着してしまっている。
この動機にはとどのつまり以下のポイントに集約されている。
・瞬間風速的に売れればいい。永く売れれば儲けもの。
それとは別に、このアニメに関して言えば、
・表情や演出による情報の圧倒的不足
以上が上げられる。
よくよく何度も見返してみると人気のあるキャラクターの 表情 のみある程度描かれ、回りの表情は静止画で済まされている。それは予算の都合で理解できるのだが、静止画の表情がそもそも適正ではない。そこが問題である。人は生物学において対象そのものより周辺の情報、反応から検証、精査を行なうため、対象周辺部の情報が不適切だと適正な判断を下せず、正しく読み取れるものほど混乱する。私が感じて違和感はまさにそれだった。
この件は、意図的に描いていないのなら 演出 となり問題ないのだが、明らかに単なる手抜きであり、ともすれば手抜き以前の問題として、「表情を描き分けるスキルがない」 いやもっと問題なのは 「そもそもその表情がわからない」 という点でを危惧する。これは宮崎駿監督がドキュメント番組で危惧していたことそのもので、最近のアニメターは若い頃に十分な行動を通していないので動きや表情が素で理解できなくなっているといった趣旨の発言が思い当たる。
これはアニメという性質上決定的な問題である。人が演じていれば下手でも多少なりとも無意識に補完されるのだが、アニメはそれを意識して描いて伝えなければならない。
この作品に関しても、主人公の表情が心情と完全に乖離していることがしばしばあり、見ていて非常に違和感に感じていた。見流している時はいいのだが、ある程度ちゃんと読み取ろうとするほどに違和感しか生み出さない。これは伝える側のミスである。これが意図だとしたらやはり受容者を小馬鹿にしていると言わざるおえない。意図とうっかり出てしまった双方が恐らくあるのではなかろうか?
・そもそも衝撃の展開など求めていない
真剣に読んでいる側、見ている側はそもそも 衝撃的な展開 など求めてはいないのではなかろうか。
衝撃的な展開に感じる場合や、意外性は結果的に得られるものであって積極的に提供するものではない。
ミステリーにおいては重要なファクターであるので例外とも言えるが、
こと本質においては求めいないと思う。
・ショックを求めるのは興味本位の外野だけではなかろうか。
大切に読んでいる側は 面白い ことが重要なので ショック や 意外性 など求めていない。
マスコミにありがちな、ショックな事象を表題にもっていくの安易だが効果的な方法である。
ショックを演出する為に理不尽なことをされると受容者側は不用意なストレスに晒されるだけになる。
本来そうした仕掛けは重要な中身を読ませる為の手法であったに思う、
目を引いた挙句に中身がなければ完全な本末転倒であるが、現在はそこに陥っている。
ショックの為のショックとか最後は空っぽの無限マトリョーシカだ。
・ネタ明かしを最後するズルさ
物語や登場人物の関係性を理解をする為に必要な情報が基本的に前もってもしくは平行して提供する必要が提供側にある。提供されない情報は無視しても差し障りの無いものであるべきだ。
後から手品的にネタ明かしをしたり、重要な情報を出さず後からネタばらしするのは単に受容者を小馬鹿にする行為に思える。理解出来なくて当然であるからだ。ところがこうした作品は多いように感じる。この手の作品は冒頭の設定とラストさえ読めば間を読まず完結していしまう。これは手法としては理解できる。
・「結局この物語の結論は何?」という視点をズラすためにあるように思う。
特に視聴者や読者にこの最近はこの傾向が強い気がしていた。「結論」、この物語で言えば「誰とくっつくの?」という点にばかり焦点があってしまい、物語の最中に繰り広げられる大切なやり取り(作者はそうしたポイントも大事にしているので)が全てスルーされてしまう。読んでいる筈なのに、見ている筈なのに、 「どういうこと!?わけわかんね」 と問いただす受容者は実に多いよう。
「いやいやいや、前の話で描いていたでしょ?」
とわかっている人からすれば「何いってんの?」となるが、そうした場合に前の部分を読みなおそうとしないようだ。仮に読みなおしてネタが割れると、それを誇らしげに公然とバラシテしまう。個人のブログでなら私は構わないと思うのだが、多くの人達が見ているニコ動のような場でも平気でバラす。これは作者がけして望まないことだろう。その結果、必要な情報を開示しないことに提供側は神経質になる。本来結論はオマケみたいなもので、真面目に読んでいる読者が結論を先に気付くは当然のことである。逆にそこがバレて物語が面白くなるなるのなら大した中身もないということになってしまう。情報提供者側は売上の関係で無理もない側面があるが、それの意図が作品の自在さを失わせるような事態にまで今はなっているように思う。それが意図的な情報の隠蔽に含まれていると感じた。
重要な情報が隠蔽されれば先の展開が読めないのは当然であり、「ほーらーざまー予想外だったろw」 と製作者側に暗に思われているとしたら、これが小馬鹿にされていないで何なのだろうかと思う。この作品に関しては 登場人物に思い入れがあり過ぎて反社会的な行為に出た読者が逮捕された経緯があるようだが、それを作者および製作者側は良い重しとして捉えているだろうか? 勿論、彼が償わなければいけない。ただショックやインパクトを演出せんが為に、登場人物を意のままに翻弄し、読者を翻弄し、それで「やったった」みたいな感覚でいるとしたらこれが悪徳でなくてなんなのだろう。でも、そうしたものを感じる。
・登場人物の未来を軽く考えている
命を吹き込んだのなら、登場人物の運命もしっかり見据えて欲しいものだ。勿論、全ての登場人物が幸せになる未来というは極めて不自然だ。リアルがそうでないように。しかし、そうならざるおえないものを登場人物が行動として起こしていたら、受容者は受け入れざるおえない。登場人物の痛みを受けそれでも尚幸あらんことを願うだろう。脅迫はもってのほかだ。そんなことをするぐらいなら、その思いの丈を二次創作で展開し、幸せな未来を自ら書き上げ、「どや!!こういう未来も書きようがあったんやど!!俺の○○たんに謝れw」と作者にたたきつけたやった方がなんぼフラストレーションも解消されるだろうし、自分の能力を開花させることにもなるし、作者も嬉しいだろうに思うのだが。ただ、最近の作者は登場人物の運命を軽く考えすぎている気がする。「所詮、ライトノベルだからw」とか「創作だからw」とか安易に考えているように思う。
愛がないのだ。MHFのモンスターをデザインした人が、「ハンターが倒されると!やったった!」と思い、逆に倒されると、「あー・・・今度はもっと強く設計してあげるからね・・・」と悲しい思いをするような趣旨のインタビューを読んだことがある。これが愛情だと思う。そうしたものが欠けている気がする。
創作物は自らの分身である。その分身を蔑ろにするということは自らを蔑ろにしていることであり、そんなものを提供しているといことにもなる。双方とって何のとくもない。そんなことを思い当たった。
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