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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
11 / 28 Thu 14:46 ×
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05 / 28 Tue 16:56 #ドーラ ×
ネタバレにならない程度に書くと、
なんともニヤニヤしてしまう内容であった。
1期できった方は7、8話だけは必見!!(・∀・)ノ
恐らくココがピークでは?

他人の、しかも物語の恋愛ごとに胸を+(0゚・∀・) + ワクテカ +させているという時点で
いかに自分にそうしたことがないかが伺えるが事実だから仕方がない。(;´∀`)
本来ならああしたことはリアルで行い、リアルで満足してこそ健全である。

知人に相手を紹介してもらったりはあるのだが、
「もちっと相手を真面目に考えてくれまいか?(;´∀`)」
紹介されて偉そうなことは言えないが・・・我が事のように真剣には考えてないのはわかる。

第8話の感想はズバリ、

ニヤニヤがとまんねー!!

これに尽きる。第8話での彼女の行動の動機は、全て第7話に出たドリムノートに書かれていたことの再現であった。
あれを読むと全て彼女のした行動の裏付けがとれる。
にしても京介のような懷が広い人はまずいない。自分に置き換えれ見ればわかる。
普通ああいうことされたら 「恥ずかしいよ」 とか 「何だよそれ」 とか 「今度はやめてくれ」 と誰しも相手の価値観を強制することに行動をうつすだろう。ところが彼は一切そういうことがなく、その全てを受け入れている。なんという聖人ではなかろうか!!!俺なら・・・残念ながら無理だ。限界がくる。
実際に美人の電波女性と知り合ったこともあるが、あの苦痛さたるやない。何せ会話が通じないのだ。暫くは耐えられるが、そう遠くないうちに限界がきてしまう。

全16話で原作の最後まで放映されるようなので期待せず朴念仁のごとく見守りたい。

拍手[0回]

物語中の黒猫は主観と客観がまだとれているのでマシだがああいう人はまずいないだろう。いないから電波になるのである。赤城の妹である瀬菜が限界だ。彼女は境界をしっかり見据えている感がある。ただ、黒猫みたいな人が仮にいると仮定したとしても残念ながらうまくはいなかいだろう。結局彼女は頭の中だけで全てを決め、頭の中だけで行動し、京介のように柔軟に相手を受け入れようという姿勢がない。全て思い込みの行動に見受けられる。柔軟性がない人はいい具合にはまると綺麗に回るが、一旦少しでもズレるとうまくいかない。世の中はまらないことの方が多いので当然不都合をきたす。
自分が柔軟にならない限り相手が誰であれうまくはいかないだろう。付き合うとは相手あってのことであるからだ。

個人的には妹達を大切にしている黒猫には幸せになってもらいたかっただけに残念だ。(まるっきりの保護者目線であるが) だが、少なくとも作中の彼女は一人相撲の果てに自ら引き込んでいるわけだから、むしろ加害者であり被害者ではない。加害者と言ってしまうのは可哀想だが。あくまで「よかれ」と思っての行動なので。それだけに残念でならない。彼女に自らを省み、幸せに生きるチャンスを作者には与えて欲しかった。原作は読んでいないが、この構造と方法論からいって恐らくチャンスはないだろう。拍子抜けしたエンディングが目に浮かぶようだ。本質的なテーマをタイトルにせず具体的なタイトルをテーマにしてしまう不幸、頭だけで、意外性だけで物語を構造的に書こうとする不幸がこうした場合に作用するのではないか。登場人物が可哀想で仕方がない。作者はもっと登場人物を愛して欲しいものだ。私なら黒猫には自らの行動を省みるチャンスを与えたい。そうした部分に作者の良心や価値観が反映されるのだ。他人にチャンスを与えない人は、登場人物にもチャンスを与えないものだ。

それほどまでにラストシーンに愕然としてしまった。

「またか」という感覚である。
あの1シーンでこの作品がいかに構造的意識でもってのみ展開しているかが伺える。
つまり作者に燃焼がなく物語を構造的に書いていることに思う。
頭でもって作品をコントロールしているに過ぎない。
そうした作品は結局心には残らない。
使い捨てだ。
作中で黒猫自身が言っていたように、作りたい、書きたいという思いは意識外の働きによるものが大きい。
そこに才能の差こそあれ、貴賎の差はない。
時を経ずに多くの人に支持されたものがイコール傑作ではない。
民が喜ぶのはその作品が民でも理解出来る程度のものに限られるからである。
やはり少なくとも100年は経ないと「よい作品であったか」どうかはわからないものだ。
99%がたその間に流されて価値を失う。

少なくともそれはら燃焼を伴っているものだ。

それが時として傑作を生み出すのだが、本作にはそれが無いことになる。
作る人閒が最低限持ち得ているものが無いことになる。これは困ったものだ。

私の感覚では物語は登場人物が動かすものであり、
向う先は決っているが時としてそれすらも転覆することがあると思う。
それが書く側の歓びであり、逆に動かない時の苦悩に通じるわけだが、
この作品にはそれがないのではなかろうか?
まーそういう作品もあって構わないわけだから、これは価値観の相違で済まされるとは思う。
少なくとも私とは違うのかもしれない。

ともすれば編集者とかなり構造的に打ち合わせをして物語の風向きを決めているのではなかろうか?

どうしても気になったので調べると、どうやらビンゴだったようだ。
かなり編者が微に入り細に入り関与しているようで、その都度方向性が決められているように感じた。
「なるほど、であるか」
つまりキャラクターの心情を無視し、あくまで愚民を誘導する指導者のごとく意識バリバリで物語を操っていることに感じた。
これは現在の指導者側によく見られる、国民無視、社員無視 の方向性にそっくりである。
「私はこうしたいから従え」という姿勢でまるで柔軟性がない、ジャイアン的思考そのものに思う。
読者に媚びる必要は絶対にないが、書いている側が登場人物の心情を感じとり、当初考えていた方向性とは違う流れへ持っていくのは作家の良心に所以しているのではないか。
売れることや、インパクトというポイントに視点を変調すると、登場人物や読者を結果的に完全に置いてけぼりにするように思う。

今はこうした歪んだ構図が作品をつまらなくさせているのではないのだろうか?

ビジネスである以上は考えに偏向気味になるのは仕方がない部分はあるがそれがいよいよ度が過ぎているのでは?
最終的に読者は「おもんない」となりいつの間にか何も読まなくなる。
そしてニュースで「読者離れ」とか、まるで降って湧いたようなニュースが流れる。
そうさせたのはまさに製作者側の責任が多々あるのではなかろうか?そこを反省せずに、まるで読者の側が全て悪いかのようなニュースには眉をひそめざるおえない。
読者はいつの時代も胸踊る冒険を!心ときめく恋愛を!望んでいるのではないだろうか?最低限度の売上を確保する努力は当然企業であるから必要として、その裏でいかに作者を自由にさせ、また才能を開花させるよう助力をするのが出版社側の役目に思うのだが、それがなされているようには思えない。今の企業サイドは某映画原作者が受けたように搾取することしか考えてないように思える。そりゃー「ブラックジャックによろしく」の原作者が出版社と離別するわけだ。それが正しい選択に思う。

あのラストシーンでこの物語がどこへ向かっているか全て透けて見えてしまったようだ。
今月原作の最終巻が発売されるようなので初めてライトノベルとやらを読んでみようかなとは思った。その點で言えばこの「京介と黒猫の関係」にはインパクはあった。序破急における構図に綺麗に当てはまる。この手の構造をもった物語は結局導入巻と最終巻を読めば全て事足りる場合が多い。恐らく「やっぱりなー」という想像と大差ない結果が待っているのではないだろうか。

このタイトルと構造的な展開から結局は元の鞘に戻るが以前より良好な関係になった以上。
といった感じではなかろうか。それかとってつけたような展開かのいずれかに終える場合が多いように思う。



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