私はお喋りが好きだ。
無い腹を探られることも多いが関係ない。喋れればこの世は天国!w
喋る人には幾つかのタイプがあるが、そのほとんどは有害なケースがしめる。
私は自分で分析すると最も無害なパターンのようで、我ながら安心した。
単に喋ることを快楽としているタイプ。それが私のお喋りだ。
だから、我ながら大したことを言ってないことも把握している。
深く考えてもいない。
たいしたこと言っていいないからいいのだ。
そして考え出したらお喋りというのはつまらなくなるのだ。むしろ3割程度ホラがあるほうが面白い。
事実を正確に喋ろうとする人の話は実は聞いててツマラナイことが多い。
私は良心回路が強固なのでホラはフケないが、根っからの記憶曖昧男なので数値関係はかなりいい加減であるw
私にとってお喋りはもはやナニをするより快感といってもいい。(ちょw
「お喋り」とは脳の言語野に関する発達具合で生まれた時にほぼ決定づけられるそうだ。
才能である。
言語野は女性が基本的に発達しており男性は大きく劣る。
その結果、女性はベラベラと喋り、男は寡黙なのだ。脳のなせる技だ。
しかし、自然とは、生命とは実に素晴らしく多様性に飛んでいる。
ポテンシャルを秘めながらも男でも言語野が発達している人もいれば逆もあるというわけである。
お喋り好きな男子は好き嫌い抜きに言語学の分野に力を注ぐべきだ。
言語野のポテンシャルが高いので習熟するのに適している。
これまた面白いもので、
一生に喋れる言語数というのは生まれながらにほぼ決定づけられているらしい。
寡黙な男は正しいのだ。
寡黙な男が喋ると、後が無いw
一日に喋れる言語数というのも限られている。
女性はおろか男性にとっても喋るという行為は脳内で快楽という位置づけにある。
が、
一日に喋れる言語数が少ない男は、女性の数十分の一にも満たないので当然ながら喋れる言語数は限りがあり、喋り倒せる女性からしたら物足りなくなるのは当然なのだ。女性の許すマジ暴力に、喋らない男性にたいする冒涜行為がある。これは完璧な暴力行為であることをほとんどの女性は理解してない。
しかし考えてもらいたい。
40キロマラソンできる人からしたら、1.5キロで死にそうになっている人をみて唖然とするだろう。
走れて当たり前の世界である。
「問題はタイムでしょ。それを・・・ばっかじゃないの!その程度でいき切らしてどうすんの!マジメにやれ!そら走れ走れ!!」というようなものだ。
「殺す気かw」 と言える。
これは完全なる暴力、拷問ですらある。
40キロ走るには肉体的才能やベースとなるものが必要である。そのどちらもないのにいきなり走れないのが普通であり、それを自分が走れるからといって自分の価値観で相手に強要するのは完璧に暴力だ。これと同じことが「お喋り」にも言える。元々1日に1000語程度しか喋れない男子に、10万語喋れる彼女が 「なんて辛気臭いの・・・さいってい!私のこと愛してないの!」 といったってソラー無理な相談だ。これは拷問であり、虐待であるw それを女性は気づいてない。今すぐ止めてもらいたい。お喋りは女性同士でするものだ。
ただ、稀に私みたいにお喋りな人もいるので相手を見るべきだろう。
我ながらよく喋る。
時々客観的に自分をみると、
客観的な俺「内容ねーこと言ってるなー俺」
主観的な俺「楽しいんだから内容なんてナイヨー」
客観的な俺「うわwサブッ!w」
主観的な俺「ヒーハー!」
客観的な俺「うぷwどーぞ、お好きに」
となることもある。
さて、言語能力を超えて喋ったらどうなるか、ある種の実験結果もでてる。
結果は過労死であるwwwww 勿論実験はそうなる前にドクターストップとなったようだ。つまり衰弱までは続いたので被験者は大変だったと思う。喋りすぎて過労死・・・。だが、あり得ると思う。
私がそうだった。
このお喋り常套の俺が、
寝たきりになった時、一言も発することが出来なかった。
出来ないとは文字通りで、声が出ないのだ。蚊の鳴くような音が出る程度である。
電話で5分も喋ろうなら意識を失いそうになった。電話をきってそのまま倒れたこともある。まるでドラマだ。
実際昔のお年寄りはベラベラ喋らない。
当然だ。それが健康で長生きするのに必要なのだ。
喋るという行為は声帯はおろか脳や肺や心臓や腹、全身の機能を使って音を出す。物凄い労力なのだ。
だから縁側で、茶をすすりながら半日座っているお年寄りというのは正しいお年寄りである。
それに気づいた私の野望は世界各国の人と喋りたいである。
ゲルマン人のナニが長い理由は医学的に判明しているが、他の国民はどうなんだ?とか、あんたの国はどうしてそうなんだ?とか、語らいたいものだ。好奇心がクチを明けさせる。
結論は喋る前にわかっている。
が、それを喋りたいだけなのだ。
血的、文化的、民族的背景が異なれば価値観は異次元のものとなるだろう。
なぜ異次元の価値観となったか、その経路を会話から探索するだけでも好奇心がそそられる。
世の中、パソコンや携帯なんぞなくても快楽に満ち満ちているなー。
あー俺が頭よかったから10ヶ国語ぐらい喋りたいものだなー。
某社で※の国へ行ったとき、あるバーでトムクルーズ似のバーテンが英語で
「お前は乳がデカイのと小さいのどっちが好きだ?」(超真顔) と言ってきて
「そらーデカイのがいいね」(キラン)
「HA-HAHAHAHAHA!どこの国も男は同じだなー!俺もデカイの好きだ。友達になれるな」
と言われ固い握手をしたことがある。超真顔だったトムクルーズはこぼれんばかりの笑顔になり、どこか接点を見出した安堵感が漂っていた。
実際聞くと話した上で握手するでは大違いである。それ自体が快感なのだ。
ちなみに、
誤解のないように書いておきたいが、
男性のいう「デカイ」のがいいというのは挨拶のようなものだと女性は考えてもらいたい。
基本的に男性からしたら別に絶壁だろうとなんであろうと乳がそこに存在していればいいのだ。
女性がナニを「デカイ」のがいいと言いがちなのと等しい。その言葉は共通している。
問題は相手が好きかどうかだけだ。
入り口として、デカイから目に付く、目につくところから興味がわく。探究心のようなものでデカイキッカケはあってもそれは単なるキッカケの糸口でしかない。だから安心して欲しい。むしろ絶壁だった場合は「あー俺だけの愛しい絶壁」となる。愛は盲目である。
では、なぜデカイのがいいかというと
美 であるからだ。乳の大きさというのは、男には絶対にない美があるのだ。男は女性より実はより美を求める。これもまた脳の関係でそういうものだ。相撲取りの 乳には美がない。嘗て女性の胸と局部だけをあつめた写真集が規制のゆるい時代に大ヒットし、話題になったが、あれはよくよく見ると実に美であるのだ。かく も世の中は多種多少なのだろうかと驚くばかりである。今思えば買っておくべきだった。結構高いので買わないで何度か立ち読みで済ませた。今思えば資料に なっただろう。実におしいことをした。男性版がないのは単に売れないからw 発売されるようなことがあれば見てみたい。勿論モデルはお断りだw
お喋りとは快感を生むが、
無い腹を探られることも多いが関係ない。喋れればこの世は天国!w
喋る人には幾つかのタイプがあるが、そのほとんどは有害なケースがしめる。
私は自分で分析すると最も無害なパターンのようで、我ながら安心した。
単に喋ることを快楽としているタイプ。それが私のお喋りだ。
だから、我ながら大したことを言ってないことも把握している。
深く考えてもいない。
たいしたこと言っていいないからいいのだ。
そして考え出したらお喋りというのはつまらなくなるのだ。むしろ3割程度ホラがあるほうが面白い。
事実を正確に喋ろうとする人の話は実は聞いててツマラナイことが多い。
私は良心回路が強固なのでホラはフケないが、根っからの記憶曖昧男なので数値関係はかなりいい加減であるw
私にとってお喋りはもはやナニをするより快感といってもいい。(ちょw
「お喋り」とは脳の言語野に関する発達具合で生まれた時にほぼ決定づけられるそうだ。
才能である。
言語野は女性が基本的に発達しており男性は大きく劣る。
その結果、女性はベラベラと喋り、男は寡黙なのだ。脳のなせる技だ。
しかし、自然とは、生命とは実に素晴らしく多様性に飛んでいる。
ポテンシャルを秘めながらも男でも言語野が発達している人もいれば逆もあるというわけである。
お喋り好きな男子は好き嫌い抜きに言語学の分野に力を注ぐべきだ。
言語野のポテンシャルが高いので習熟するのに適している。
これまた面白いもので、
一生に喋れる言語数というのは生まれながらにほぼ決定づけられているらしい。
寡黙な男は正しいのだ。
寡黙な男が喋ると、後が無いw
一日に喋れる言語数というのも限られている。
女性はおろか男性にとっても喋るという行為は脳内で快楽という位置づけにある。
が、
一日に喋れる言語数が少ない男は、女性の数十分の一にも満たないので当然ながら喋れる言語数は限りがあり、喋り倒せる女性からしたら物足りなくなるのは当然なのだ。女性の許すマジ暴力に、喋らない男性にたいする冒涜行為がある。これは完璧な暴力行為であることをほとんどの女性は理解してない。
しかし考えてもらいたい。
40キロマラソンできる人からしたら、1.5キロで死にそうになっている人をみて唖然とするだろう。
走れて当たり前の世界である。
「問題はタイムでしょ。それを・・・ばっかじゃないの!その程度でいき切らしてどうすんの!マジメにやれ!そら走れ走れ!!」というようなものだ。
「殺す気かw」 と言える。
これは完全なる暴力、拷問ですらある。
40キロ走るには肉体的才能やベースとなるものが必要である。そのどちらもないのにいきなり走れないのが普通であり、それを自分が走れるからといって自分の価値観で相手に強要するのは完璧に暴力だ。これと同じことが「お喋り」にも言える。元々1日に1000語程度しか喋れない男子に、10万語喋れる彼女が 「なんて辛気臭いの・・・さいってい!私のこと愛してないの!」 といったってソラー無理な相談だ。これは拷問であり、虐待であるw それを女性は気づいてない。今すぐ止めてもらいたい。お喋りは女性同士でするものだ。
ただ、稀に私みたいにお喋りな人もいるので相手を見るべきだろう。
我ながらよく喋る。
時々客観的に自分をみると、
客観的な俺「内容ねーこと言ってるなー俺」
主観的な俺「楽しいんだから内容なんてナイヨー」
客観的な俺「うわwサブッ!w」
主観的な俺「ヒーハー!」
客観的な俺「うぷwどーぞ、お好きに」
となることもある。
さて、言語能力を超えて喋ったらどうなるか、ある種の実験結果もでてる。
結果は過労死であるwwwww 勿論実験はそうなる前にドクターストップとなったようだ。つまり衰弱までは続いたので被験者は大変だったと思う。喋りすぎて過労死・・・。だが、あり得ると思う。
私がそうだった。
このお喋り常套の俺が、
寝たきりになった時、一言も発することが出来なかった。
出来ないとは文字通りで、声が出ないのだ。蚊の鳴くような音が出る程度である。
電話で5分も喋ろうなら意識を失いそうになった。電話をきってそのまま倒れたこともある。まるでドラマだ。
実際昔のお年寄りはベラベラ喋らない。
当然だ。それが健康で長生きするのに必要なのだ。
喋るという行為は声帯はおろか脳や肺や心臓や腹、全身の機能を使って音を出す。物凄い労力なのだ。
だから縁側で、茶をすすりながら半日座っているお年寄りというのは正しいお年寄りである。
それに気づいた私の野望は世界各国の人と喋りたいである。
ゲルマン人のナニが長い理由は医学的に判明しているが、他の国民はどうなんだ?とか、あんたの国はどうしてそうなんだ?とか、語らいたいものだ。好奇心がクチを明けさせる。
結論は喋る前にわかっている。
が、それを喋りたいだけなのだ。
血的、文化的、民族的背景が異なれば価値観は異次元のものとなるだろう。
なぜ異次元の価値観となったか、その経路を会話から探索するだけでも好奇心がそそられる。
世の中、パソコンや携帯なんぞなくても快楽に満ち満ちているなー。
あー俺が頭よかったから10ヶ国語ぐらい喋りたいものだなー。
某社で※の国へ行ったとき、あるバーでトムクルーズ似のバーテンが英語で
「お前は乳がデカイのと小さいのどっちが好きだ?」(超真顔) と言ってきて
「そらーデカイのがいいね」(キラン)
「HA-HAHAHAHAHA!どこの国も男は同じだなー!俺もデカイの好きだ。友達になれるな」
と言われ固い握手をしたことがある。超真顔だったトムクルーズはこぼれんばかりの笑顔になり、どこか接点を見出した安堵感が漂っていた。
実際聞くと話した上で握手するでは大違いである。それ自体が快感なのだ。
ちなみに、
誤解のないように書いておきたいが、
男性のいう「デカイ」のがいいというのは挨拶のようなものだと女性は考えてもらいたい。
基本的に男性からしたら別に絶壁だろうとなんであろうと乳がそこに存在していればいいのだ。
女性がナニを「デカイ」のがいいと言いがちなのと等しい。その言葉は共通している。
問題は相手が好きかどうかだけだ。
入り口として、デカイから目に付く、目につくところから興味がわく。探究心のようなものでデカイキッカケはあってもそれは単なるキッカケの糸口でしかない。だから安心して欲しい。むしろ絶壁だった場合は「あー俺だけの愛しい絶壁」となる。愛は盲目である。
では、なぜデカイのがいいかというと
美 であるからだ。乳の大きさというのは、男には絶対にない美があるのだ。男は女性より実はより美を求める。これもまた脳の関係でそういうものだ。相撲取りの 乳には美がない。嘗て女性の胸と局部だけをあつめた写真集が規制のゆるい時代に大ヒットし、話題になったが、あれはよくよく見ると実に美であるのだ。かく も世の中は多種多少なのだろうかと驚くばかりである。今思えば買っておくべきだった。結構高いので買わないで何度か立ち読みで済ませた。今思えば資料に なっただろう。実におしいことをした。男性版がないのは単に売れないからw 発売されるようなことがあれば見てみたい。勿論モデルはお断りだw
お喋りとは快感を生むが、
PR