私は昔から本能的に漫画や空想小説は基本的にそもそもナンセンスと捉えていました。
これはセンスがないという意味ではなく、センスを問わないという意味でです。
どういうことかというと、理屈や整合性なんて基本においては不必要ということ。
だからジョジョなんか当然ながら何も疑問に思わず読んできましたが(理屈を問わないから、コウだ!と言えばそうか!と受け入れる)、今にして思うと相当な人が理屈読みしてるんですね。これは近年でかなりのショックです。感性がかなり衰えているのだなーと実感します。
何かにつけて矛盾をつく
そもそもが空想なのだから理屈を通すことに何の意味もない。物語が面白いかどうか、興味があるかどうかが問題であるに思うのだが、理屈が気になって物語に集中できない人が増えているようだ。これは楽しむことが一層下手になっているのだなーとある種の弊害として捉えている。これは表現を感じることの能力が減少している証でもあるだろう。
こう書くとナンデモアリと勘違いするが、正直それはその人のセンスなのだろう。私でも現代のリアルを書いた漫画はある程度の理屈を求める。リアルを書いているのに、1時間の距離を1秒で渡ったら「はぁ!?」ってなる。全くの無関係じゃいられない。でも、「ま、漫画だから」とかなり許容の目でもって読む。理屈はどうあれ面白ければ。でも最近では通用しないんですねぇ。これは読み方が変化してるんだなーって痛感します。
境界
どこまでがセーフでどこからがアウトってのは非常に難しい問題ですが、理屈が気になって物語が読めないという人が多くなった結果、やたらと説明セリフが増えたのも頷ける。これは頭で読んでいる人が多いという証でもある。私もどちらかと言うと筋を通した方だからつい書きすぎてしまう方だが、それでもあそこまでは言わせないなーと感じることが昨今多い。
宮崎駿監督がドキュメンタリーで言ったおりましたが、嘘をついても崩れない部分と嘘をついたら終わりな部分ってのがあります。最近の漫画や小説は多くはそれが崩壊していると感じます。同時に単に事象だけ追っている読者が増えたんだなーと実感する次第です。
宮崎駿監督がドキュメンタリーで言ったおりましたが、嘘をついても崩れない部分と嘘をついたら終わりな部分ってのがあります。最近の漫画や小説は多くはそれが崩壊していると感じます。同時に単に事象だけ追っている読者が増えたんだなーと実感する次第です。
表現
表現と理屈は相反する関係だ。理屈から遠のき象徴的になるほど高尚になる。そう考えると、今は逆だ。より具体的により説明的になり、それらが整合していないと非難される。読む側、観る側が受けれていないだけのケースは遥かに多い。例えばポニョの感想を聞くとよく分かる。受け取れる人とそうでない人の差で圧倒的に評価が別れる。
あれなんか、受け取れない人には酷く幼稚な映画になってしまう。駿監督は老いたと言ってしまう。あれは説明を言葉でせずに表現で納得させる工夫が匠に随所にされており驚くばかりだ。観る度に発見がある。
町を水没させた理由が「ソウタに会いたい」だけってのはおかしいと突っ込んでいる人もいたが、監督に言わせれば「おかしくともなんともない。会いたい結果だから」というギャップになる。監督はその結果大災害を生み多くの人が亡くなっていることだろうことは当然わかって描いている。
実際問題世の中は理屈通りには全く動いていない。矛盾だらけ。理屈を言う人ほどその矛盾は大きい。やっちまうのが人間であり生命の本質に思う。言葉は後からつく。説明しはじめた時点で既に本当の理由からは遠ざりだす。
どこにスポットを当てるかでその表現者の才能や知性や感性が鑑賞できる。本来はそっちが主で、ある意味では物語すらどうでもいい。ただ、だからといってそこを踏み外すと問題外になる。押井氏なんてそこをよく踏み外す。
駿監督は目指す目線が人間表現でありつまり芸術なのだとわかるが、押井監督は理屈から抜けられない。だから何を見ても結局は同じだ。彼の話をよく聞くと改めて彼は芸術がわからないんだなと実感する。彼の目線は工芸だ。工芸と芸術は似て非なるものだが、そこをわかる人そのものも少ないのだろう。私は工芸も好きなので彼の映画も好きだが、どちらかしか見れないのなら迷わず駿監督の作品を選ぶ。工芸から抜けて初めて芸術になるのだから。
表現と理屈は相反する関係だ。理屈から遠のき象徴的になるほど高尚になる。そう考えると、今は逆だ。より具体的により説明的になり、それらが整合していないと非難される。読む側、観る側が受けれていないだけのケースは遥かに多い。例えばポニョの感想を聞くとよく分かる。受け取れる人とそうでない人の差で圧倒的に評価が別れる。
あれなんか、受け取れない人には酷く幼稚な映画になってしまう。駿監督は老いたと言ってしまう。あれは説明を言葉でせずに表現で納得させる工夫が匠に随所にされており驚くばかりだ。観る度に発見がある。
町を水没させた理由が「ソウタに会いたい」だけってのはおかしいと突っ込んでいる人もいたが、監督に言わせれば「おかしくともなんともない。会いたい結果だから」というギャップになる。監督はその結果大災害を生み多くの人が亡くなっていることだろうことは当然わかって描いている。
実際問題世の中は理屈通りには全く動いていない。矛盾だらけ。理屈を言う人ほどその矛盾は大きい。やっちまうのが人間であり生命の本質に思う。言葉は後からつく。説明しはじめた時点で既に本当の理由からは遠ざりだす。
どこにスポットを当てるかでその表現者の才能や知性や感性が鑑賞できる。本来はそっちが主で、ある意味では物語すらどうでもいい。ただ、だからといってそこを踏み外すと問題外になる。押井氏なんてそこをよく踏み外す。
駿監督は目指す目線が人間表現でありつまり芸術なのだとわかるが、押井監督は理屈から抜けられない。だから何を見ても結局は同じだ。彼の話をよく聞くと改めて彼は芸術がわからないんだなと実感する。彼の目線は工芸だ。工芸と芸術は似て非なるものだが、そこをわかる人そのものも少ないのだろう。私は工芸も好きなので彼の映画も好きだが、どちらかしか見れないのなら迷わず駿監督の作品を選ぶ。工芸から抜けて初めて芸術になるのだから。
セル画とCG
宮崎監督がセル画にこだわった理由の一つとして、セル画には揺らぎがあると言っていた。それは凄いよくわかる。結果的にそれが人間表現になるのだ。ところがCGには揺らぎがない。信号化されノイズが排除され変化が意図以外排除される。それがいかに面白くないものであるかは現代の人が理解するのは難しいだろう。表現者は他のちからを介在させたいと切望するが、デジタルの世界はそれを排除する動きでしかない。そこから表出されるものは、どこまでいって小さなものでしかない。そういう意味では作画崩壊は寧ろ味わいですらあるが。優れた崩壊は作者が望むものだが、崩壊する場合、ほとんのケースで悪い方に転ぶからねぇ。
宮崎監督がセル画にこだわった理由の一つとして、セル画には揺らぎがあると言っていた。それは凄いよくわかる。結果的にそれが人間表現になるのだ。ところがCGには揺らぎがない。信号化されノイズが排除され変化が意図以外排除される。それがいかに面白くないものであるかは現代の人が理解するのは難しいだろう。表現者は他のちからを介在させたいと切望するが、デジタルの世界はそれを排除する動きでしかない。そこから表出されるものは、どこまでいって小さなものでしかない。そういう意味では作画崩壊は寧ろ味わいですらあるが。優れた崩壊は作者が望むものだが、崩壊する場合、ほとんのケースで悪い方に転ぶからねぇ。
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