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ネット人生まっしぐら、アナログとデジタルの狭間にいきるドーラの雑記帳です。
05 / 12 Sun 21:00 ×
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03 / 04 Wed 20:13 #ドーラ ×
今回はややストレートに考えさせる回でしたが、これはこれで色々見る度に考えさせられますね。作中で誰も応えられなかった、「なぜこの仕事をするのか?」この問は働いている人間なら誰しも感がさせられるところだと思います。

なぜこの仕事をするのか?)

私も働く前にと働いている間かなり考えました。
平岡ぐらいの年来の時は明確にありました。「稼ぐこと」でした。
今こたえるのなら「自分の道にそれがあったから」というのが正確でしょう。
今ではそれが「なぜ生きるのか?」に移行していきます。

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就職の意味)

昔から言われていることに「男にとって働くとは生きることである」という言葉があります。細かい表現は違いますが。当時、これを読んで、「はぁ?何それ、俺は違いますが」と思いました。
私にとって就職する前は実に明確で「稼ぐためでした」。
とはいえ、当時は全く気づきませんでしたが、この稼ぐにも色々あり、「目的の為に稼ぐ」と、「目的なく稼ぐ」、「生きるために稼ぐ」と色々いると後々知ることになります。これは似て非なるものでした。

稼ぐことの違い)

私は最も多いだろう「目的なく稼ぐ」人でした。当時は単に「稼ぐ」でしたが、今思いかせすと「目的なく」というのが重要でした。
高校生の段階で夢は破れています。私は学生時代を通し、絵やイラストは書きたいが才能がないらしい、漫画が書きたいが才能はないらしい、映画が作りたいが才能はないらしい、脚本を書きたいが才能はないらしい、と創造的現場に無自覚に憧れていたのですが色々試した結果、自らに烙印を押します。「無理だわw」

後々になって気付かされたのですが非常に「傲慢な考え」だと思い知らされます。「お前は傲慢な人間だ」と面と向かって罵倒されたことがあります。当時は今回の平岡ばりに「はぁ!?」としばらくムカっとしました。

才能を語る傲慢さ)

本当に天賦の才という次元はぶっちゃけ1%も持った人はいないと考えられます。恐らくゼロこんま数%でしょう。それを持った人にそう言われたんです。

「才能が、ある、ない」と比較している時点で「傲慢」。今思うとなるほどと自得します。才能があるかどうかは結果しることであり、「それを知る努力を貴様はどれだけやったのか!?」ということを問わていたと気づきます。それこそ寝る間も惜しんで365日10年20年とやって「どうやら才能はないようだ」なら納得すると。少々カジッた程度で「才能を天秤にかける」時点で何もやっていないことの証であり「傲慢である」と。打ちのめされました。実際、やっているんですよね、そういう方達って。努力とか好きとか嫌いとかそういう次元ではなくただやり続けているんです。

見える人、見えない人)

これは基本的に才能の下駄で大きく異なっていくようですが訓練で見えるようになります。才能の下駄あるなしの差は大きいですが、そこを気にしては終いです。絵でいえば徹底した模写で目を養う。誰でも伸びるようです。見えないと描けないのです。当然ながら。そして見えないと必ず行き詰まる。その結果、年くうとかなり傲慢になります。

今回エマタソとウーちゃんの会話にもありましたが、そういう人達って「自分が見えないから」どうでもいいって言っちゃうんです。この時点で「この人は見えない人だ」と吐露していることになります。今回の場合は平岡が見えていても「客はア4だから見ていない」と判断を下したかもしれませんがどのみち墓穴です。

これは見える人からすると決定的な発言で「駄目こりゃ」と見捨てられます。だから他人はともかく自分が見えていれば自分の目に従って限られた時間と技術の中で力を尽くすしかないのです。すると「見える人」は見てますから「あ、こいつ見えているな」とわかるわけです。この差は時間が経過するほどに天と地の差になってきます。

作中では杉江大明神やゴスロリさんや井口さん、あのボインちゃんが見えている人。おっと失礼!素敵なバストの作監のように。(え!同じか)ある意味では他人なんか関係ないんですが、自暴自棄な態度は覿面に人は見分けます。

プロの厳しさ。好きであることの不自由)

好きだから始めるというのは動機として最もあるものですが、なるほどこの年になると「好き」というのは不自由さが残ると実感します。いや、好きでいいんですけど。

というのも、好きなうちは嫌いになるからです。好きと嫌いというのは常に表裏一体で、どんなことでも天井はありますし、その前にそもそも壁にぶち当たります。エマタソが猫で苦しんだように。すると、好きであるが故に反転する。好きでああるがゆえに辛いのです。好きでも嫌いでもなければ単に「猫がうまく描けない」というレベルにとどまり「どうすればうまくかけるか」と直ぐに探求が始まります。そこに精神的な軋轢はありません。ただ描けないと認識し、描くための行動に連動している。

ところが好きであるが故に描けないことに対するストレスというのは好きなほど強く大きく、それが知らず軸足になってしまいます。つまり描けないという固定点が出来てしまいより描かなくなるし描けなくなります。それがかえって足を引っ張る要因になる。固定点が出来ると正確に印象なく見えなくなるからです。

結婚と恋愛は違う)

超好きだった子に裏切られたと感じたばっかりにトラウマになるのも同じ。好きでもない子が同じことをしていたとしたら「へーひでーな」ぐらいで終わる。興味がないからです。冷静に見えます。結婚の多くが成功しないのもここで「好きだから」結婚した。その分「嫌いになる」強度はまします。

硬くて長いスプリングと柔らかくて短いスプリングの差のようなものです。昔、日本で主流だった周囲が勧めてくれるお見合いが如何に優れていたか。それはこの点にあります。周囲が冷静に双方の性格的、背景的ものを見定めて選んでいる分、先入観が当事者に無く、思い入れもないので寧ろ結婚して「こういうことをする人なんだ」「ああいうことで喜ぶんだ」とプラス要因が増え、マイナス要因も等価で増える。元々が好きでも無いわけですから思い込みがないぶん壊滅的な破壊も生まない。また、経験豊富な周囲が性格や背景的ものを鑑みている分、当然そういう事態にもなりづらいのです。

好きで選んだ分、嫌いにもなるのです。私の経験上、超絶に好きで結婚した人はこの世のものとは思えないほど醜い争いをしがちです。互いに言っていることは全部ブーメランで、外野からすると二人共自分で投げたブーメランと相手が投げたブーメランで2倍に血まみれなんですが当人は「私は絶対に悪くない!!!俺こそ正義!!!あびゃああああああああ」と全く非を認めないんですね。一生平行線です。

んま、それも人生の一コマなんでしょう。何も経験せずにこもっているよりは精神のヒダが出来てそれはそれで良かったなー・・・と自分なんか後悔もしてます。(;´∀`) 何せそれだけ熱愛出来る経験というだけでも羨ましいといえば羨ましいですよ。その方がある意味では人間的です。

全ては動機で決まる)

恋愛は恋愛を愉しめばいいし、結婚はそうはいかない。一緒にいて楽しい人と、暮らして幸せな人は全く違う世界なんですね。だから「暮らして幸せになりそうな人」を標榜して探さないといけないわけです。選ぶ動機で全ては決まりますから。時間がたつほどに誤差は壊滅的になります。ロケットと同じですね。

女性に多い稼ぎ中心で選ぶと失敗する理由もコレです。何故なら、男性が稼げるかどうかは本人の能力より社会や周囲の影響が絶大で旦那の瑕疵がなくとも容赦なく下がることがあるからです。すると動機が「稼ぎ」ですから、女性は自分の想定を下回った時点で「裏切られた」と感じてしまいます。これは論理破綻しているのですが、彼女からしたらそれは裏切りなんです。

「貴方は1千万以上稼いでいたら結婚したのに!」というのは彼女視点からすると裏切りなんです。そんなの通用しませんけどねw そういう人は離婚しても同じ過ちを繰り返すでしょうが、それを止めることは出来ないでしょう。止められるぐらいならとっくに気づいているでしょうから。一時期流行っただめんず・うぉ~か~というのはこういう類の方でしょうね。当然ながら渡り歩きます。

女性に多いのですが、現時点での条件を勝手に永遠と続くと過程してプランを構築し、それを前提に行動する。これは脳的にも致し方ない側面がありますが、それは家庭内ではある程度通用しても社会では通用しないのです。何せどんな天才ですら一寸先は闇ですから。それを知っているからこそ神の見えざる手とか言うんです。

稼ぐことが目的な人)

私はとにかく「目的なく稼ぐこと」でした。当時の認識としては「(可能な限り好きなことで)稼ぐ」というもので、認識と無自覚で誤差がありました。

なので心の奥底では「これは本当にやりたい仕事ではない」という逃げがあります。真面目に日々は働くのですが、実のところこれだとスキルが伸び悩む。(;´∀`)あー人生やり直してー!

自転車操業と同じなので目の前のことしか実は考えていません。んで、目の前のことしか考えてないというのは遊びがないので当然ながら虚しくなります。先進んでも広がりがないですから。

「目的があって稼ぐこと」このタイプは明確です。自らにビジョンがあり、これが実ったら次、ってビジョンがあるので、目先のことに追われながらも自分が確実に階段のどこにいるかある程度把握しております。このタイプは結果として出世しますし、目的によって会社を変わります。

転職の良し悪し)

平岡型は単に未練があり他所へ行けないために同じ業界を渡り歩くタイプです。これは悪い転職の典型例。ビジョンがない。これは20代ならそれでもまだ間に合うのですが30代なるとかなり本人も辛いと思います。腹をきめるべきでしょう。

未練がない人間は業界に関係なく渡り歩きます。これも基本は平岡型でよくない転職でしょう。雇う側は相手のビジョンを見ている。この人間は何を目指し今なん合目にいるのか?そこを真面目な人事はみます。業界に脈絡がない転職の場合は正直に言いながら今後のビジョン、考えを伝えないと「どうせ辞める>なら入れない」となります。一人の人間を失職させるのは雇用するようり大変でしょう。なので普通は考えるんです。

某企業達のように、最初から擦り潰して捨てるつもりなら余程の理由じゃない限り雇います。なので、逆に「きってくれる企業」というのはある程度考えているとも言えます。本当に酷い企業はキリ慣れているので関係なく入れて、苛烈業務にほおりこんで、擦り潰したら捨てる。この繰り返しでしょう。

なので転職が良い方に働くには明確なビジョンと辞めた理由があって始めて意味をなすと感じます。

生きるために稼ぐ)

生きるために稼ぐというのは非常に純粋です。だから昔の人の言っていたことというのは本当に的を得ていると実感します。私は歩いていたら道が開けていた。というものでした。だからといって稼ぎは酷いものです。そして好きでやっているという感じはやっぱりありません。なので他人様から「本当に好きなんだね」と言われると「いや、全く」となり「またーご冗談を」と理解されません。でも正直な気持ちです。

必要とされ、生きんが為な部分と、お世話になった手前、無碍にも断れないという恩返しという意味あり手伝ったのが結果的に続いているというところが正しいです。どんな仕事でも奥は深いです。そしてある程度やり込むとその面白に気づきます。なので、好きか嫌いかというのは案外どうでもよく「面白い段階にきたら面白いと感じる」といったところでしょう。

実際に昔の人はほとんどがコレでした。親がやってたから、親に紹介されたから、友人に世話してもらったから、親戚に、同僚に、とかそれが結果今も続いているという人がほとんどだったでしょう。前述したように、「好き」で始めたわけじゃないのである意味では冷静に仕事を見れて、元々が好きでもないので「嫌い」にもなりません。

なので、本当は自分で選ぶより作中の池端さんのように人に選ばれる方が幸せと言えるでしょう。ただし、能力があることと好き嫌いは別ですし、能力があるからと向き不向きは別だと思います。実際は物凄く複雑で、幸福しにして才能がそれなりにあり、好きで、挙句に向いているという人がいます。そうでない人から見ると「輝いてみる」だけなんだと思いますね。

道と夢)

基本的には道にそって歩むのが最も無駄なく負荷なく人生を広げてくれたりします。その際にはやはり正直が一番なのでしょう。タローのように。好き放題いいながら道なりに歩む。今更ながら他人に自分の夢を語ることは実は大事だと感じます。

無自覚に自分が喋った夢を相手が覚えており、ある日突然結んでくれる瞬間があります。でも自分がその夢を実現する為の力や行為を怠っていたら当然ながら結ばないし、結んだら逆に不幸です。なので、夢は夢として持ちながら「仕事」とは関係なく日々取り組んでいると突然!!ということがあるので夢は持ち続け行動し続けることが大切なんだなーと実感しますね。

戦いが終わったら何をするか)

今話でアリア達の言う「私の戦いが終わったら」次に何をするか、私は小説を書くことですね。他にもありますけど究極はやっぱり小説かな。というより実際は「戦いが終わったら」という条件づけは成立していません。というのも、「終わったら次は」という発想は既に破綻しているからです。

「明日から本気だす」と同じで、本気ではないから言えるわけです。人生、一寸先は闇ですから、次とお化けは出たためしがないんです。ある日突然、人は死ぬんです。これは自分ではどうしようも出来ません。だから今何でもいいからヤルというのが基本にあると思います。

ヤルといっても時間がない人も多いでしょう。そういう人は脳内でやっていればいいんです。脳内でやるのもやっているうちです。これ実際に言われたのですが、最初言われた時は「んな気休めにもならん!!!世辞はいいんだよフ○ーーーっく!!!」と内心ではかなり腹がたったのですが、実際に過ごすと実感します。大違いです!

「明日から本気だす」は0+0+0+・・・=0です。今は描けないけど「こういうの描きたいな」とか「こういう感じ( ・∀・)イイ!!いつか描きたい」というのは、3+1+10+2・・・=100ということにもなるんです。それは、脳や肉体が「あ、こいつ何時か本当にやりたいみたいだから、今のうちに情報を感覚を蓄えておかないと」と必要に迫られるので結果そうなるのです。

構えで人間は180度変わる)

だから「明日から本気だす」ではなく「俺は今その途上にいる」と構えた方が無意識下で準備が始まります。勿論、何より大切なのは「ホンネで自分がそう思っているかどうか」であり、逆に本音で何も思ってないのにそう声に出したり思うと逆に分裂症になるので止めましょう。だからタローでいいんですw タローは本音で言っているわけですから。この場合に、自分がその才能があるかどうかは度外視する。やりたい気持ちに本来理由はないのです。

これは脳の怖いところでもありまして、人間の肉体や脳というのはサボリ魔ですからw 実際は出来るだけ怠けたいのは脳と肉体の本音なのです。死について調べた経過が昨年度発表されましたが衝撃でした。「基本的に人は死にたいと思ったら死ぬようだ」というものでした。

つまり心の底から「あ、もう俺なにもすることないや」と無意識に実感したら脳や肉体は「じゃ、死ぬか」と急激に死に対する準備をし始め、死んでしまうようです。また認知症等は「死に対する恐怖から逃れるためそうなる」とも言われておりますが、これは、「やることはないけど死ぬのはなんか怖い」ということにもなります。死のは怖いけど何もやりたいのがない、この認識というのは裏を返すと脳なしの司令官みたいなものですから任せられないわけですよ。だったらお前はボケとけというわけです。生きるというのは基本的にプラスであり前向きなので肉体は生きる為の努力を継続する為に意識である司令官を解雇した結果が認知症なのではなかろうかと私は捉えています。

だから昔から程度の悪い子供を持っている親は死ぬまで元気であるというのもソレです。親不孝の親孝行というのは昔から言われております。ただし程度によります。出ないと無理心中になりますし、過度なストレスは肉体が結果的に「やってられるかぼけー!!」と匙を投げますので。といってもこの場合は内心では「やってられるかぼけー!!」と思っている自分がいる気がしますね。自分の限界突破すると痛感しますが他人ってほんと知らないことをいいことに無茶苦茶いいますからねw

一時、介護の虐待映像が問題になりましたが、あれはああすることでバランスをとっているんです。暴力は許されるべきことじゃありません。本当は暴力を振るう前に、ありとあらゆる機関や人を総動員して押し付けるぐらいの勢いで巻き込み、自分の負担を減らすよう努力するしかないのです。暴力の先は悲劇しかありません。でも、昔と違い本当に世知辛くなりましたから、なかなか難しい問題です。ああいう時は、なりふり構わずってのがいいんでしょうね・・・私も考えちゃいますもん。

小説をなぜ書くか)

私も聞かれるのですが「降ってくるから」ですね。誰しもがそうだとずっと思ってましたが、どうやら違うよう、「人生でただの一度も小説を書きたいなんて思ったことない」そうですね。

いつも何かしらのものが降ってきます。基本的には放ったらかしなんですが、ある程度たまってくると「煩くなるんです」「ザワザワする」と言えばいいでしょうか。すると、放ったらかしにする方が落ち着かない。イライラするんですよ。

どうしても吐き出したくなる。そして、次第に物語の原型というかシーンが折り重なり。「こことココと結論だけを書きたい」という風になる。以前、そこだけ書いてみたことがあるのですが「はぁ!?」ってなのが仕上がるwww 全然おもしろくないんですよ。頭の中では凄い面白いんですよ。んで、何が足りないんだろうと思い周辺部を書き出すと。

その繰り返しですね。んで、なかなか書きたい部分に到達しないので、今度は書くことがストレスに反転し書けなくなる。書こうと思えば書けるのですが、露骨にツマンナイ。書いていてもツマンナイので嫌になる。ほんとは嫌でも一定レベルに仕上げてこそのプロなのでしょうが、私はその点プロではないのでいいかと考えています。

エマタソとウーちゃんの今回の会話じゃないですが、そういう部分って見抜ける人はわかっちゃう。技術があれば一定レベルに仕上げられますが(故に技術は必要)、「あ、魂入ってねーな」ってわかっちゃうんです。技術よりも魂が入っていることの方が大事。何せ人は結局のところ魂を見ますから。自覚があれ無自覚であれ。どうやらそれはどんな人でも備えているものだと近年実感します。

声優さんなんかも昨今多いですね。技術を磨いて、才能もありウマイんだけど魂が全く乗ってない人。物凄い多い。上辺だけで滑っているんですよ。人気声優に非常に多いですけど。でも、そういう人の仕事は結局は残りません。飽きるからです。単にウマイだけの声、絵、物語、作品等は技術が優れていればその瞬間は「うわー凄い」なんですが、過ぎたら終わりです。何も心に灯すものがない。人は灯すものだけが残るんです。

技術はどうあれ磨いていれば時間でいずれ伸びるようですが、魂は本人が自覚し感動しヒダを持たない限り出来ないので気づいた時は手遅れになることもあります。ヒダと時間というのは一朝一夕には得られませんので。

ほんと、このアニメは色々と考えさせてくれます。
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